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柄谷行人のマルクス読み直し:「トランス・クリティーク」より


柄谷行人の初期のマルクス論(「マルクスその可能性の中心」における議論)を評して小生は「マルクスによってマルクスを否定する」と言った。柄谷のマルクス像がかなり恣意的だと思ったからだ。そういう恣意的なところは「トランスクリティーク」でも変わらない。むしろ強まったくらいだ。「マルクスその可能性の中心」では、「ドイツイデオロギー」を材料に使って柄谷なりのマルクス像を描いていたが、ここでは「資本論」を材料に使っている。そしてその主な目的は、マルクスとエンゲルスのデカップリングと、マルクスをプルードン主義者に仕立て上げることである。

柄谷はなぜ、マルクスをエンゲルスから引き離し、プルードンとくっつけようとするのか。それは柄谷自身の基本的な性向からきているのであろう。柄谷は自分自身をアナキストだと言っているとおり、国家とか権力といったものが嫌いらしい。一方彼は、若い頃からマルクスの強い影響を受けてきた。そこでできたらマルクスを、自分のアナキスト的な傾向と調和させたい。そう思ったのではないか。とすれば、従来常識となっていたマルクスとエンゲルスの一体性に疑問を呈し、できれば両者をデカップリングさせたうえで、アナキストであるプルードンとくっつけ、できればマルクスをプルードン主義者に仕立て上げたい。そうすることによってマルクスを、自分の好きなアナーキズムの先輩にすることができる、というわけであろう。

マルクスをアナキストにできれば、柄谷が考えていた理想的な社会理論をマルクスの名において展開できる。しかし、そんな面倒なことをしないでも、柄谷自身の名においてやればよいのではないか、と小生などは思うのだが、柄谷としては、そうではなく、マルクスの名において自分の社会理論を展開することに意義があると考えているようである。柄谷の名において発表しても、世間に向かっては大したインパクトにならないものも、マルクスの名においてやれば、世界中から注目を集めることができる。それがまたマルクシズムの活性化と、新たな社会理論の醸成にもつながる、と考えたのであろう。

柄谷がそう考えることについては、小生もわからぬではないところがある。柄谷は、マルクス主義的な「常識」(いわゆるマルクス主義者たちの間で通念となっている考え)は、社会変革の理論としては破綻していると考えている。それは、もともとマルクスの中核的な業績であった資本主義批判の面でも有効性を減じており、ましてや社会主義革命を目指すものとしては、ほとんど機能していない。なぜそうなのか。そのような問題意識から発しながら、柄谷は、それはマルクス自身に問題があったからではなく、いわゆるマルクス主義を標榜する自称マルクス主義者たち(エンゲルスはその筆頭格である)のせいだとする。だから、マルクスを、本来のマルクスに立ち戻って、正しく理解すれば、袋小路に陥っているかに見える現在のマルクス主義に違うマルクシズムを対置することで、おのずから道は開けるのではないか。

その場合に、柄谷が意識的に遂行しているのは、資本論の読み直しである。その読み直しを通じて、マルクスのマルクス本来の思想を再発見し、それを新しい社会理論の骨格としたい。しかしてその読み直しとは、従来のように生産を中心としてではなく、交換を中心とするものである。生産と中心とするマルクスの読み方は、いわゆる史的唯物論とそれによる労働者革命への展望を齎したわけだが、もはやこうした見方は破綻している。資本主義はまだまだ盤石な勢いをもっているし、革命など絵空事に思えるほどだ。それは、マルクスの理論を生産の観点から見るからだ。生産の観点から見れば、資本と労働との対立とか、資本による剰余価値の搾取といったことがらが強調される。しかしこうした見方からは、新しい人間的な社会への展望は生まれてこない。ましてや剰余価値の搾取を資本による労働者の人間性の蹂躙とし、それの廃絶を社会主義の目的とするようでは、まったく現実を見失った議論というべきである。

柄谷は、そうした生産中心の見方から交換中心の見方への転換を主張する。そうすることで、新しい社会への展望が生まれてくる。その新しい社会の基本的なあり方を柄谷はアソシエーションの連合と言っているが、それは交換の上に成り立つシステムである。生産を中心に見れば、階級闘争の主体としての労働者階級が前面に出てくるが、交換を中心に見れば、さまざまな自発的なアソシエーションの連合が前面に出てくる。未来の人間的な新しい社会は、労働者階級の独裁にもとづく強権的な権力国家が担うのではなく、自由なアソシエーションが自発的な連合体を形成し、その自由なアソシエーションのアソシエーションが社会を動かす、というようなイメージを柄谷は将来の社会の理想的なあり方とした。

こうした考えを柄谷は、プルードンから学んだようだ。プルードンといえば、マルクスが「哲学の貧困」でこっぴどく批判したこともあり、マルクスとは全く異なる思想家として位置付けられてきたという歴史的な経緯があるが、柄谷はそうした経緯を全く無視して、マルクスがプルードンの思想に深く共鳴していたと主張する。その主張は、マルクスはそもそも若い頃から、プルードン的な意味でのアナキストであったのであり、また生涯を通じてアナキスト的な心情をいだいていた、という主張につながる。だからマルクスは、世間でいわれるようなマルクス主義者ではなく、プルードン主義者だったということになる。

このようにプルードンを基準軸にしてマルクスの読み直しを図る柄谷にとって、その読み直しの中核部分というべきものは、剰余価値をめぐる議論である。マルクスは、資本論を虚心に読む限りでは、剰余価値は流通過程からは生ぜず、あくまでも生産過程から生じると言っているのであるが、柄谷はそうした読み方を拒絶して、マルクスが剰余価値を交換過程から生まれると見ていたと主張する。この主張は、社会システムを生産様式からではなく、交換様式から基礎づける柄谷の社会理論にとって、決定的に重要な意義をもつものだから、その破綻は柄谷の理論体系全体の破綻につながる、それほほどの重みを持つのである。

柄谷によるマルクスの剰余価値論の読み直しは次のようなものである。マルクスは、剰余価値は生産過程から発生するが、それが実現するのは流通過程においてであると言った。それを言い換えると、剰余価値は「流通過程において発生しなければならないと同時に、流通において発生してはならない」ということになる。これはアンチノミーである。そこで柄谷は、カントのアンチノミーを議論した時の気楽さを以て、このアンチノミーを解消しようとする。剰余価値は、流通から生じるのだが、その流通には、空間的あるいは時間的な差異がある。その差異から剰余価値は生まれる。たしかに全く同じシステムを前提とすれば、交換はあくまで等価交換であり、そこから新たな価値は生まれない。しかし交換が違うシステムの間で行われれば、そこから利潤すなわち剰余価値が発生する。このどう見ても無理筋の議論を用いて柄谷は、剰余価値が流通すなわち交換過程から生じると結論付けるのだ。

これがマルクスの議論を歪曲したものであることは、ちょっと頭を使えばわかることだ。マルクスが、剰余価値が流通によって実現されると考えたのは、個別の生産部面における剰余価値がそのまま商品の価格として実現されるわけではなく、市場における競争を通じて実現されるということを言っているのであって、市場における交換が、新たに剰余価値を生みだすなどとは、どこでも言っていない。たとえば、プルードンを批判した「哲学の貧困」においても、プルードンが個別の生産部面において発生した剰余価値が、そのまま掛値なしに取引されるという主張するのをあざ笑い、商品の価格は市場における競争を通じて実現するのであり、その際に、剰余価値も市場の平均値として実現されるということを言ったに過ぎない。けっして市場における交換から、新たな価値が生まれるとは言っていない。たしかにマルクスは、空間的に離れた市場の間では、商品が価値以上の価格で売れることを認めていたが、それは商人資本の(例外的な)活動の結果であって、商品全体の価格設定とは別の次元のことである。それを柄谷は、商品のすべての価格設定が、流通すなわち交換過程を通じて実現されると強弁するのである。


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