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柄谷行人の伊藤仁斎論


徳川時代の政治思想についての研究は、長い間、丸山真男の圧倒的な影響下にあった。丸山は若い頃に書いた「日本政治思想史研究」において、徳川時代には朱子学が体制を合理化する理論体系として機能し、その朱子学をめぐってさまざまな言論が展開されたと見た。そのさまざまな言論のうちで丸山がもっとも注目したのは古学の系統である。古学は荻生徂徠によって確立され、やがて本居宣長によって大展開をとげるわけだが、そうした流れの中で伊藤仁斎は端緒的な位置づけをされた。丸山によれば、朱子学への批判としての古学は、仁斎から徂徠をへて宣長にいたる直線的な発展過程をたどったということになる。柄谷はこうした丸山の見方を批判して、仁斎について新しい視点を提示するのである。

柄谷の伊藤仁斎論は、「ヒューモアとしての唯物論」所収の論文「伊藤仁斎論」のなかで展開されている。柄谷は、丸山真男が提示した伊藤仁斎についての見方を正面から否定するのであるが、それについては二つの根拠を挙げている。一つは、「仁斎の認識は根本的に徂徠や宣長と異質であって、後者によって乗り越えられていくといったものではない。その逆である」という点。もう一つは、朱子学は丸山の言うような意味での徳川幕府の唯一の原理ではなかった、「そもそも徳川体制は、形而上的な原理を必要とすると同時にそれを避けなければならなかった。ある意味で、朱子学のような体系的原理性は、徳川幕府にとって望ましくなかった」という点である。もし朱子学が徳川幕府にとって唯一の原理でなければ、それと対決したことに思想史上の意義を見出す丸山の見方には大した意味はないということになる。

まず、仁斎と徂徠・宣長との相違について。丸山的な見方では、これら三人とも朱子学を乗り越える根拠として古学に遡ったということになる。その場合徂徠にとっての古学は孟子であり、宣長におけるそれは「古の道」であるとされる。それに対して仁斎は論語を規範にする。論語と孟子との間には連続性があると見られ、したがってそれらを規範とする仁斎と徂徠の間にも連続性があるように見えるが、実はそうではない。仁斎と徂徠の間には断続がある。一方、徂徠と宣長の間には連続性がある。そう柄谷は見立てるのである。

その断絶がいかなるものか、柄谷は色々言っているが、ごく単純化して言うと、徂徠や宣長の学問が、ある統一した原理に基づく閉じた体系であるのに対して、仁斎の学問が、生きた人間としての他者との間に成り立つ開いた姿勢を体現しているということである。柄谷は仁斎の学問の特徴を他者との間の対話という点に見ている。そしてそれを、論語の特徴でもあると言っている。論語は、孔子がさまざまな人との間に行った対話の記録である。その対話は、ある特定の生きた人間を相手にしており、決して一般的他者に発せられているわけではない。仁斎はそうした論語の対話的な方法を自らも実践した。徂徠や宣長を含めて大多数の学者の場合は、一般的な他者としての抽象的な人類に向けて発せられているが、論語を規範とする仁斎は、あくまでも特定の生きた人間との間の対話に専念したというのである。そこから仁斎の学問の特徴である開放的な気分が生まれる。柄谷は、仁斎と山崎闇斎の塾の様子を比較して、闇斎の塾が闇斎による一方的な講義に終始したのに対して、仁斎の塾では、仁斎と塾生たちは対等の立場で自由に議論したと言っている。かれらの塾は、京都の堀川通りを隔てて向かい合っていたから、その塾のこうした対称性は激的な効果をかもしだす。いずれにしても仁斎の学問は、生きた人間同士の対話を通じて、開いた議論の上に成り立っていたというのである。

対話というと、プラトン描くところのソクラテスの対話が想起されるが、その対話は真の意味での対話ではないと柄谷はいう。ソクラテスの対話は、相手とともに一つのことを解明しようというものであり、したがって協力というか、協働の関係にあって、その間に対立はない。対話者は二人とも同じ方向を目指して協力する。それに対して論語における対話は、そういう協力を前提にしてない。それこそ自由に話している。そうした自由さを仁斎も受け継いだ。それは徂徠や宣長にはないものだ。

仁斎がそのように自由でありえたのは、かれが町人出身であり、徳川時代の身分秩序からある意味はみ出ていたことに起因する。仁斎が生きた徳川時代の初期には、身分秩序はまだ固定化されておらず、かなり流動的な面を含んでいた。そうした時代を背景にして、仁斎は比較的自由に振る舞うことができた。そうした意味では仁斎の流儀は時代の所産ということもできる。

ここで先述した二つの問題の第二のもの、すなわち徳川体制の非原理性が絡んでくる。丸山は、徳川体制を支えるものとして朱子学が果たした役割を、その原理性に認めたわけだが、実はそうではない。徳川体制は、ある点でそうした原理性を必要とするとともに、それを避けようとする要請にもさらされていた。徳川体制というのは、基本的には分散的な封建制度であって、中央集権的な制度ではなかった。中央集権的な制度なら、全国を一律に運営するための統一的な原理を必要とするだろうが、分散的な封建制度においては、そうした要請は働かない。むしろ分散的な秩序を促進させるような傾向を持つ。徳川幕府にとって唯一重要なのは、武士を頂点とした身分秩序を安定させることであり、そうした秩序を破壊するものに対しては苛酷な態度をとった。だがそれも徳川体制が安定化する元禄以降のことであって、徳川時代の初期においては、まだまだ社会の流動的な動きがあった。仁斎は町人出身の学者として、そうした身分秩序のすき間に己を置いていた。そうした姿勢が、統一的な原理よりも、人間同士の自由な対話を重視させることにつながったといえる。

ともあれ仁斎は、他者との自由な対話を重視した思想家だというのが柄谷の基本的な見方である。柄谷は、仁斎が朱子学を禅的だといって批判したことをあげながら、その禅的という言葉の意味を、他者を排除したモノローグだと言っている。そうしたモノローグからは、万人にあてはまる統一的原理は生まれるかもしれないが、生きた人間同士の自由な関係は生まれない。仁斎が重視するのは、そうした自由な人間関係なのである。それを柄谷は、仁斎にかわって、人間の「単独性」の重視だと言っている。

こうしたわけで、柄谷の仁斎論は、仁斎を体制から身を引いて、それを高みから見下ろすような思想家と評価している。そうした姿勢を柄谷は、システムの間に身を置き、いかなるシステムをも相対化するものだと言うわけだが、仁斎もまた、そうした姿勢をとった先駆的な人物だと見ている。柄谷の仁斎についての評価は、非常に高いのである。


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