知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学プロフィール 掲示板




世界史の実験:柄谷行人の柳田国男論


「世界史の実験」(岩波新書)は、柄谷行人の柳田国男論の仕上げのようなものである。柄谷は、若いころ日本文学研究の一環として柳田を論じたことがあり、その後、「遊動論」を書いて、柳田の山人論に焦点を絞った論じ方をしていた。山人というのは、日本列島のそもそもの原住民が、新渡来者によって山中に追いやられた人々のことをいうが、その生き方の遊動性が、狩猟・遊牧民族の生き方によく似ていた。狩猟・遊牧民は、柄谷が素朴な交易の担い手として設定するものであり、いわゆる交換様式Aの担い手である。交換様式Aは、原始的共同体を基盤としており、国家を前提とした交換様式B及び資本主義的な交換様式Cを経て、最終的には交換様式Dとして復活するものと展望されていた。交換様式Dというのは、アソシエーションの自由な結びつきとしての「アソシエーションのアソシエーション」とされる。それは、柄谷なりのコミュニズムを意味していた。そういう文脈の中で柄谷は、柳田を柄谷なりに解釈したコミュニズム=アソシエーショニズムの先駆者として位置付けたわけである。

山人を中心とした柄谷の柳田国男論の骨格というべきものは、「遊動論」においてほぼ遺漏なく展開されているので、この「世界史の実験」が付け加えるところは風縁的な事柄といってよい。だが、なかなか刮目させられる説もある。たとえば柳田国男と島崎藤村を比較するところである。この二人は一時非常に親密な関係にあったが、後に義絶した。その理由の一つとして柄谷は、かれらが似たもの同士だったことをあげている。人間同士あまり似すぎるとかえって反発することもあるらしい。その似ているところとして柄谷があげるのは、二人とも父親が平田派の神道にかぶれていたことだ。藤村の小説「夜明け前」のの主人公青山正蔵は、藤村の父親をモデルにしており、平田派神道の心酔者として描かれている。藤村自身はキリスト教徒になったりして、平田派神道とは一時離れたが、晩年に至って平田派のように振る舞うようになった。それはキリスト教からの乖離のようにも受け取られるが、実はキリスト教と平田派神道には共通する部分もある。藤村は平田派として振る舞いながら大東亜戦争を肯定したが、プロテスタント派の結集した「日本キリスト教団」も戦争を支持したというのである。一方柳田は、平田派神道には懐疑的であった。だが神道の素朴な考え方には共鳴するところがあった。柳田は独自の日本宗教論を唱えるようになるが(「先祖の話」等)、それは国家神道ではなく、民衆の素朴な信仰に注目したものだった。

要するに柳田と藤村とは、ともに父親が平田派神道家であったという共通点を持ち、またそれぞれの考えから宗教に深くコミットしたということを柄谷は言っているわけである。そのコミットの仕方に、二人の相違するところがあった。藤村は国家主義的に流れ、柳田は庶民の素朴な立場に寄り添ったということだろう。

山人論については、基本的には「遊動論」の繰り返しであるが、ひとつ新しい要素として、武士と山人の類縁性についての指摘がある。「『兵農分離』以前、武士は『武芸』を売り物にする芸能者の一種であった。無闇に死んだり人を殺したりすることはなかった。武士は、もっと遡れば、山地で焼畑農業とともに弓矢で狩猟を行う人たちであった」と柄谷は言う。武士が農民から出てきたということは小生も考えてはいたが、まさか狩猟採集民から出てきたとは思わなかったので、柄谷のこの指摘は意外だった。もっとも柄谷は、武士が厳密な意味での山人ではなく、定住民が遊動した山地民と言っているのではあるが。いずれにしても武士の起源を、遊動的な狩猟採集の民に見ているわけである。

武士といえば、日本社会の男性原理を体現するものであるが、日本社会のジェンダー性についても柄谷は興味あることを言っている。日本史の学者の中では、父権性が先か母権性が先かについての対立があったが、柄谷はその両者を折衷する形で双系制というものを提唱する。男と女のどちらか一方が優勢と考えるのではなく、男女平等が日本のそもそものあり方だったと考える。そう考えることで、日本社会は非常に女が活躍する社会だという事実と、にもかかわらず、土台のところでは男が力を発揮しているという事実とが矛盾なく説明できるというのである。小生自身は、日本社会は非常に女性原理が強い社会だと思っている。そうしたあり方を母権性という言葉であらわすのか、あるいは柄谷のように双系制という言葉であらわすのか、それは大した問題ではないと考える。要は、日本社会が女を尊重する社会だったということである。だった、と過去形を使うのは、今の日本で女が相応に大事にされなくなった事実を踏まえるからである。

「双系制」のアイデアを柄谷は文化人類学のほうから得たようである。柄谷は、東南アジアでは男女平等のシステムが優位だという事実を指摘した文化人類学の研究成果に立って、日本ではその男女平等が「双系制」という形をとったと考えたようだが、そう考えるに至った推論の過程は示していない。

書名のタイトルになった「実験」という言葉は、柳田の研究姿勢を言ったものだ。柳田は机上の空論を軽蔑していた。学問にとって大切なのは、事実を数多く集め、それらを相互に比較することで、そこにある法則性のようなものを見つけようとする態度だと言った。そうした態度を柳田は「実験の史学」と呼んだわけだが、そうした実験的な方法を柄谷も取り入れたということだろう。この書物における柄谷の語り方は、特定の前提に立ってそこから演繹的に展開していくというものではなく、さまざまな事象を取り上げながら、それらについて個々実証的な推論を進めるというやり方をとっている。そのやり方は、柳田を強く意識したものだ。この本の中の柄谷は、柳田を論ぜんとしながら、その柳田の語り方を借りて語っているのである。

ともあれ柄谷は、柳田が山人に見た「相互自助」の考え方に強く共感する。相互自助とは、柄谷のいうアソシエーショニズムの精神にふさわしいものである。人々が小さなアソシエーションを作り、それが自立しながらも、ほかのアソシエーションと緩やかな連合を作り、その緩やかな連合がアソシエーション相互の助け合いを支援する。そうした姿に柄谷は未来のコミュニズムのあり方を見ているようである。


HOME日本の思想柄谷行人








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである