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存在の連鎖:アリストテレスによるギリシャ哲学史


アリストテレスは哲学史について自覚的に語った世界で最初の思想家である。無論彼の生きた歴史的な制約からして、その対象はギリシャの哲学であったが、そこにはある一定のヴィジョンにもとづいて思想の発展をたどるという、哲学史を叙述する際に必要な方法意識が働いていた。そういう意味合いにおいて、アリストテレスは世界で最初の哲学史研究家なのである。

アリストテレスを含めて、ギリシャの思想家たちが探求したものは、世界の存在と、その存在を存在たらしめているそもそもの原理についてであった。それを彼らはアルケーという言葉で表現した。アルケーは物事のそもそもの始まりを意味し、始原とも原理とも訳される。

「形而上学」の冒頭で、アリストテレスは人間の本性を、知ることを欲することにあると述べている。この知へのあくなき欲求が人間を駆り立てて、世界を存在せしめている原理の探求に向かうとき、そこに哲学の営みが生ずる。アリストテレスにとって、先人の営みは、世界の存在原理を明らかにするための、それぞれに歴史的な意義をもったものだったのである。

アリストテレス自身は、存在を存在たらしめている原理、あるいは原因として4つのものをあげている。質量(ものの基体となるもの)、形相あるいは本質(ものごとの何であるかをあらわすもの)、始動因(物事の運動が始まるその始まり)、目的因あるいは善(物事がそれのためにあるそれ)である。

「形而上学」はこの4つの原理について考察し、存在の本質に迫ろうとする試みである。アリストテレスはこの4つの原理のうち、最終的には質量と形相という二つのものに議論を収束させていくのであるが、先人の業績を振り返って分析する際には、先人たちがこの4つの原理のうち、主として何を取り上げているのかを考察し、それにもとづいて、彼らの思想の歴史的な位相を明らかにしようとしている。

アリストテレスがこのような取り組みに挑んだことの背景には、自分こそ先人たちの業績を集大成して、哲学の本質を包括的に明らかにしうる立場にあるのだという信念があった。彼には、質量と形相の議論をへて、究極的にたどり着くべき最高の善というものが見えてきていた。それを十全の意味で捉えることのできたのは他ならぬ自分であるが、しかしそれは、先人たちが存在をめぐって営々と繰り広げていた成果の上に立っている。

アリストテレスはこのように自負していたに違いない。だから先人たちに向き合う彼の姿勢には、存在に関する思想の脈々とした流れに対して真摯に向き合う気迫がこもっている。

存在に関する問いかけのこの流れを、存在の連鎖ということができるならば、アリストテレスはその存在の連鎖の果てに、自分の思想の重みを据えているともいえる。

アリストテレスが哲学の創始者としての栄誉を付与しているのはタレスである。タレスは智恵の愛求(哲学)の始祖として世界の構成原理を探求した最初の人であるが、水がその原理であるといった。おそらくすべてのものの養分が水気のあるものであり、熱さえも水気のあるものから生ずることをみて、こう考えるに至ったのだろうと、アリストテレスはその素朴な存在論を贔屓目に見ている。

タレスと同じようなレベルで世界の根本的な構成原理を唱えたものとして、空気を水よりも先のものとしたアナクシメネスやディオゲネス、また火がそれであるとしたヘラクレイトスが上げられ、ついで、エンペドクレスは水、火、空気に土を加え、これら4大元素が世界の構成原理であるとした説を紹介している。

以上の人々を総括して、アリストテレスは彼らの思想を、世界の構成原理を質量の面からのみ考察したのだと批判している。質量とは物体に他ならず、世界が質量的なものからできていると唱えることは、世界が物体的なものだと主張することにほかならないと、アリストテレスは批判するのである。しかし、その物体的なものがどのようにして運動し、あるいは変化や成長をしていくのか、そのことについてはこれらの考え方では説明できないとアリストテレスはいう。

ここでアリストテレスは、物体的なものに運動や変化を生じさせる原因としての始動因についての議論に入っていくのであるが、その前に、レウキッポスとデモクリトスによって唱えられた原子論に言及している。デモクリトスの思想は首尾一貫した原理にもとづいて、世界のあらゆる現象を説明しようとするもので、古代ギリシャにあって百科全書的なスケールを誇っていたものだと思われている。現代ではその著作は殆ど伝わっていないので、内容をうかがい知ることは困難だが、アリストテレスの時代にあっては、ソクラテスからプラトンを経て自分に伝えられた思想の流れに対立するものとして、大きな存在感を持っていたと思われるのである。

デモクリトスの思想の特徴は世界を充実体と空虚からなると主張したことにある、そうアリストテレスは総括している。充実体とは原子をさし、空虚とは原子が存在する器のことである。空虚とはあらぬものであるが、あらぬものはあるものに劣らずある。パルメニデスが、「あるものはあり、あらぬものはあらぬ、」といったのに対して、デモクリトスは「あらぬものもある」といった、そうアリストテレスはデモクリトスの説のユニークなところをとらえている。

だがデモクリトスの説も、大きなくくりから言えば、質量を論じた人びととなんら異なるところはない、そうアリストテレスは総括して、デモクリトスを重く見ることはしなかった。

世界を質量の原理からとらえるのみでは運動や変化といったものが説明できぬことは、アリストテレスにとっては明白なことであった。質量に運動をもたらすのは外的な原理でなければならない。そのような原理のうち、運動がそれから始まるその始まりとしての原理、つまり始動因について考察したものは、エンペドクレスが最初であった、とアリストテレスはいう。

エンペドクレスは一方では、質量としての4大元素を唱えた人であり、その点ではタレス以来の自然哲学の延長線上にあるが、他方では質量に運動をもたらす原理として始動因を持ち込んだのである。エンペドクレスはそれを友愛と憎しみという一対の概念によって説明しようとした。友愛は元素同士を結合させ、憎しみは互いを分離させる。このことによって、物質の中に運動が生じるのである。かれはまた、この原理にもとづいて、善と悪との対立を説明した最初の哲学者だともされた。

アナクサゴラスは、ヌース=理性に始動因としての地位を与えた。彼の説はいまひとつ明確ではないが、理性をこの世界のすべての秩序と配列の原因であるといったとき、この人のみが真に目覚めた人というに値するとまで、アリストテレスはたたえている。だがアナクサゴラスは、その理性を突き詰めて考察してはおらず、宇宙創造の説明のために「機械仕掛けの神」としてのみ用い、物事がどのような原因で必然的にそうあるのかという難問に行き詰った場合に担ぎ出してくるばかりで、首尾一貫した説明原理として用いてはいないと、論難してもいる。

アリストテレスは、パルメニデスについてはあまり多くは語っていないが、ピタゴラスの徒については詳しく論究している。ピタゴラスの徒は、数学の原理をあらゆる存在の原理であると考え、天界全体をも音階(調和)であり数であると考えた。しかして世界のすべてのものは、数の似姿であると説明した。数が神の代わりをつとめていたのである。

こうしたピタゴラスの考えは、世界を理念的なものによって説明しようとする態度の魁ともいえる。その点がアリストテレスの注目を呼んだ所以であった。アリストテレスはそこに、質量因でも始動因でもない、存在の本質に関する議論に通ずるものを見て取ったと思われるのである。

アリストテレスの形而上学は、先に述べた4大原理について考究するものであるが、その中でも質量と形相という一対の原理がもっとも始原的なものだという立場に立っている。物体としての質量は、形相によって形を与えられ、あるものになる。そのあるものにとっては、形相こそが本質である。したがって、世界の存在をその本質においてとらえるためには、形相の原理をもってしなければならない。

この形相の原理について突っ込んだ考察をしたものがアリストテレスの師匠プラトンである。プラトンは感覚的なものを超えてその背後に存在するイデアというものを認めた。パルメニデスの「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」という思想に導かれ、プラトンはイデアこそが永遠の存在者であり、それに対して眼前に展開する感覚的な対象物はただの仮象であり、イデアの似姿なのだと主張した。

だがアリストテレスは、プラトンの思想にも多くの傷を認めている。かれはそれを21点について言及しているが、主なものとしてあげているのは、プラトンのイデアが感覚的な存在者に対応してその数だけ無際限に存在するということ、また、感覚的な存在者はイデアの似姿だとされているが、これでは単なる詩的な比喩に過ぎず、イデアと感覚的存在との内的な関連は何も説明できていないという批判である。

アリストテレスの面白いところは、こうした批判を自分自身にも向けていることだ。アリストテレスはプラトンの欠陥を指摘するのに、我々の欠陥という言い方をしているのである。

アリストテレスは恐らく痛恨の気持を込めてこういっている。「智恵は明らかな事象の原因についての探求であるはずであるのに、我々プラトン学徒はこれを放棄している。というのは、転化の始まる原因についてはすこしも説いていないからである。・・・我々が諸学においてまさに原因であるとみとめているところのそれ、それを我々が諸原因の一つであると主張しているところのそれ(すなわち目的因)、こうした原因が、すこしもイデアと関連させられていない。」

アリストテレスがここで言及しているのは、原理としての最後のもの、すなわち目的因である。この世界のすべてのものが、もしも目的もなくただいたずらに存在するのだとしたら、そうした世界は大した意味を持つものだとはいえない。これがアリストテレスの最後に、あるいは思考の端緒に、言いたかったことだったようだ。

世界には目的がなければならぬ。目的にはさまざまなレベルのものがある。低い目的は高い目的にとっては手段となり、人は最高の目的に向かってすすんでいくように宿命付けられている。イデアもまた、この目的の連鎖を含んでいる。そして最高の目的とは至高の善であり、すべての目的はこの至高の善に向かって階層的に秩序付けられねばならない。

これがアリストテレスの真に主張したかったことだったに違いない。




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