知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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アメリカの大金持ち


ポール・クルーグマンによれば、「2006年に、最高給のヘッジ・ファンドマネージャー25人の稼ぎは併せて140億ドルで、これはニューヨーク市の学校教師八万人全員の給料合計の三倍だ」そうだ(クルーグマン「さっさと不況を終わらせろ」山形浩生訳)。

これは象徴的な事例であって、アメリカでは一部の者への富の集中が強まっているとクルーグマンは指摘する。「ウォール街占拠運動」が明るみに出したように、トップ1パーセントの収入は1979年から2007年の間に277パーセント上ったのに、中間層の所得は65パーセントしか上がっておらず、最底辺層のそれはたったの18パーセントだという。この結果、アメリカでは所得の格差が劇的に拡大しているというわけだ。

トップ1パーセントのなかでも、最上層のもの、たとえばトップ0.1パーセントの所得上昇率は、さらにすさまじいものであるはずだ。この「トップ0.1パーセントの所得のうち、半分近くは非金融企業の重役や経営陣に行く。そして二割は金融業界の人に行く。そこに弁護士や不動産業界の連中を入れると、全体の四分の三くらいになる」そうだ。

こうした連中の所得はどのような基準によって決まるのか。標準的な経済学では、労働者の賃金は、彼の「限界生産」に相当するというふうに説明されている。では、こんな連中の所得も、彼らの限界生産を反映しているのだろうか。中にはその通りだ、という者もいるかもしれないが、クルーグマンに言わせれば、彼らの経済的な貢献と所得の間には何ら必然的な関係はない。「トップ層の収入は、下のほうの収入とはちがう。経済的なファンダメンタルズや、経済全体への貢献とのつながりは、あまり明確ではない」というわけだ。

クルーグマンによれば、こうした連中の所得は、ブレーキ要因が働かない限り大きくなる傾向がある。そのブレーキ要因は社会規範を強く反映している。なかでも、「怒りの制約」といって、トップ層の強欲さをけん制するような社会的な圧力がブレーキ役を果たしてきた。ところがそういった制約が、1980年代以降の政治環境の変化に伴って働かなくなった。労働者の権利が軽視される一方、経営者による金儲けが礼賛されるような風潮が強まり、昔は考えられなかったようなことがゴリオシされる条件が整ったというのだ。

この過程には、金融業界が大きな役割を果している、とクルーグマンは言う。というのも、まず金融業界で経営者の報酬が巨額になる傾向が確立され、それがほかの業界にも広がっていったからだ。金融業界の経営者にとって、銀行や証券会社は金のなる木のようなものだった。彼らは、何かと理屈をつけてはこの木から金を貪り取ってきた。そして、この木が倒れそうになると、外部から栄養分を補てんしてもらい、なんとか倒れないようにすることに成功してきた。外部と言うのは政府のことである。彼らは事業が成功した場合には、その果実の不相応に大きな部分を自分のポケットに入れ、失敗した場合には、そのツケを国民の税金で仕払わせたわけだ。

資本主義のグローバル化にともない、こうした傾向は他の資本主義国にも広がりつつある。日本はまだそうでもないが、しかし外資系を中心に経営者の所得が巨額化する傾向は見て取れる。日本でいま一番大きな報酬を得ているのは、報道されているとおり日産のゴーン社長だ。彼の報酬は日本的な基準からすると飛びぬけて高いと言えるが、当のゴーン社長は、これでも国際基準からすれば高くないと言って、日本の他の企業の重役報酬が低すぎるのだと言いたげな様子だ。

どちらが正常で、どちらが異常なのか、それは読者の判断にゆだねたいと思うが、こと筆者に関していえば、こうした傾向は今後広がっていくのではないか、そんなふうに思われるところだ。




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