知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルの無限概念


ヘーゲル哲学のキー概念の一つに「無限性」(Unendlichkeit)というものがある。「無限」といえば、日本語では数量を連想させる。数量的に限度がないこと、それが無限だというふうにまず受け取れる。それが時間や空間についても適用され、時間においては始まりや終わりのないこと、空間においては広がりに限りがないこと、それが無限だというふうに考えられている。こうした考え方は西洋哲学の歴史にあっても、主流であった。カントも無限というものを時間と空間との関連で考えていた。

ところがヘーゲルの無限概念は、そうした伝統的なとらえ方とはかなり異なっている。それ故、どこがどう異なっているのかを正確に抑えておかないと、ヘーゲルの無限概念を捉え損なうことになる。無限概念はヘーゲルにとっては非常に重要な役割をしているので、それを捉え損なうことは、ヘーゲルの哲学の本体を読み違えることにつながる。

ヘーゲルは無限というものを、数量的なものとの関連でとらえたのではなかった。では何との関連でとらえたのか。彼はそれを、精神的なものとの関連で捉えたのである。精神が示す運動のあり方、それが無限だというふうにとらえた。したがってヘーゲルの無限概念は、(他の哲学者におけるように)対象的な世界が帯びている客観的な属性というのではなく、とりあえずは人間の精神作用を特徴づけている概念だと考えているわけである。

では人間の精神作用のどんなところが無限なのか。

「精神現象学」においてヘーゲルが無限概念を最初に取り上げるのは「力と科学的思考」の章である。この章は、現象界と超感覚的世界との対立と統一をテーマにしているのだが、その中で無限概念が詳しく論じられる。

知覚から一歩進んだ悟性の段階にあっては、我々の認識作用は、多彩な現象の背後に、それらを統一する媒体として超感覚的な本質というものを立てるに至る。超感覚的な本質が目に見える形をとって現れたのが現象世界である。そのように悟性は捉えるのだ。そしてこの超感覚的な世界が感覚的な現象世界としてあらわれる道筋を、我々の悟性は法則と名づける。法則とは、現象とその背後にあるものとのかかわり合いを言い現わした言葉なのである。

無限性とは、この法則の現れ方、あるいはその運動を本質的に特徴づける概念として、とりあえずは位置付けられる。

この法則についてヘーゲルはいう。法則とはまずは統一体である。しかしその統一体は自己のうちに区別の契機を含んでいる。そのために統一体の内部で反発が起こり、単一の力と名づけられたものが二つに分裂する。しかしその分裂はやがて克服され、そこにより高度な統一体が生じる。この、統一~分裂~統一の無限運動こそが、無限概念の本質をなしている。そうヘーゲルはいうわけなのだ。

「この無限運動は自己同一を保つ運動である。そして自己同一体である以上、自分と関係するしかないが、自分と関係するといっても、関係する相手は自分とは違うもののはずで、自分と関係することは分裂することであり、自己同一体は内面に区別をもっていることになる・・・統一体が否定力をもつ対立物である以上、それは対立を内に含んだ対立物と考えられねばならない。したがって、分裂と自己同一化が区別されるのは、そこに、自己を克服する運動があるからに他ならない。分裂して対立項をうみだす以前の自己同一体なるものが一つの抽象的存在にすぎず、もうすでに分裂をはらむ存在なのであって、となると、実際の分裂は抽象性の克服であり、分裂の可能性を破棄するものなのだ」(「精神現象学」Ⅲ、力と科学的思考、長谷川宏訳、以下同じ)

「このように無限で絶対的な動揺を続ける純粋な自己運動」こそが、人間の認識作用の本質をなすものなのだ、そうヘーゲルは言っているのである。

ヘーゲル特有の言葉遣いもあって非常にわかりづらいところだが、要するに、無限というのは、単に量的に無限定という意味で用いられているのではなく、人間の認識作用の特質として捉えられているのである。

前述の部分での「法則」は、とりあえずは対象そのものの側の客観的な側面としてとらえられているが、それはまた、人間の認識作用が対象をとらえる側面でもある。というのも、ヘーゲルにあっては、対象的な世界も人間の認識作用も、同じひとつのもの(絶対精神)の、異なった現れに過ぎないからだ。

対象的な世界に即していえば、無限性とは、法則の無限運動のことをさし、人間の認識作用に即して言えば、精神の自由な働きのあり方をさす。対象的なものが、統一から出発して、分裂から再び統一へと戻るとすれば、認識作用のほうは、限定的なものにかかわっていながらも、そこからたえず自己自身へと立ち返り、そのことを通じて、自由に自己同一性を保つ。精神の無限の働きとは、そのような自由な働きなのだ。そうヘーゲルはいいたいのだろう。

このように整理すると、無限概念というのは、対象的な世界と精神的な世界とを貫通する基本概念であるということになる。また、(自己疎外を通じて)その二つの世界を生み出した絶対精神の本質をなす概念だということもできる。

こんなわけで、ヘーゲルによる無限概念の読み替えは、彼の哲学の本質に促されてのことだったと考えられるのである。


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