知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ロックの認識論:タブラ・ラサ


ロックは西洋哲学の伝統的な枠組みを形作っていた形而上学を軽蔑した。人間の経験に基礎をおかず、脆弱な根拠の上に、巨大な体系を築いていた形而上学というものを、ロックは有益な知識の拡大を妨げていると考えたのだ。

ロックの立場は徹頭徹尾経験に基礎をおくものである。彼は形而上学を展開する観念的な哲学者たちが言うような、人間の生得的な観念を認めない。生まれたばかりの人間の心は、何も書かれていない白紙、タブラ・ラサだというのだ。このタブラ・ラサに観念が刻まれて、人間が複雑な思考をできるようになるのは、経験の積み重ねによる。

ロックの哲学はしたがって、人間の精神がさまざまな経験をとおして、複雑な思考を操作する過程に焦点をあてる。彼の哲学は認識論と同義なのである。

認識論は近代哲学にとって最大のテーマとなるのであるが、それは思考に焦点を当てたデカルトの哲学と並んで、ロックの経験主義的な認識論の枠組みに大きく影響されてきたのである。

ロックはまず経験の源泉から出発する。この源泉としてロックがあげるのは感覚と反省である。感覚とは外的な事物を知覚することから生じるもので、人間の知覚のうちでもっとも基本的なものである。反省とは我々自身の心の中で起きていることを知覚する作用で、内的感覚と言い換えることもできる。この二つの源泉からもたらされる知覚が、あらゆる観念の材料を提供する。そして我々の知識はこれらの観念の一つ一つから成り立っているのであるから、すべての知識は経験に先行することはない。

観念は単純観念と複合観念に分類される。単純観念はさらに、第一性質と第二性質とに分けられる。第一性質は物体に固有の性質で、それなしにはその物体を考えることができないようなものである。延長と個体性、運動と静止、形と数といったものが例示される。第二性質はその他のすべての性質をいい、色、音、匂い、味などが代表的なものである。

第一性質は物体そのものの中にあるが、第二性質は知覚するもののなかにある。例えば目がなければ色は存在しようがないし、耳がなければ音はないであろう。つまり、物体と人間とが出会う場所に成立する観念であるというわけだ。

複合観念とは単純観念をさまざまに組み合わせて生ずるものである。ロックはそれを様相の観念、実体の観念、関係の観念などに分類している。そして単純観念や複合観念をさまざまに操作することから、我々が思考と呼ぶ作用が生じ、そこからさまざまな知識が生まれてくる。これがロックの基本的な考えである。

こうしてみると、ロックの認識論はきわめて単純で図式的だという印象を持たれるだろう。ロックは非常に単純で原始的な感覚から出発して、それらが機械的に組み合わさることで複雑な思考が生じるというが、実際は、感覚一つ取り上げても、ロックがいうようには単純なものではない。まして複雑な思考が、ぜんまい時計のように機械的なつながりから成っているなどとは、いまでは誰も信じないだろう。

しかしこの単純な態度が、その後の哲学思想に及ぼした影響には大きなものがあった。物事が単純化されることで、議論の焦点が明確になり、経験主義的な態度と先験主義的な態度との相違があぶりだされることとなったからだ。

ロックの認識論のなかで、その後の哲学上のアポリアにつながったものが一つある。それは実体についてのロックの見方をめぐるものである。

実体とは我々の心に単純観念を引き起こすもろもろの性質の担い手であると考えられる。我々は白くて、砂のようにさらさらとして、匂いはないが甘い味のするあるものについて、砂糖という名称を与えて独立の物体として認識するが、この砂糖という言葉で観念されるものが、ロックによれば実体に相当する。

ところでこの実体とは何者であろうか。それは我々が単純観念をもとにして、それらを相互に関係付けることによって導き出してきた複合的な観念である。したがってそれは我々の心が作り出した観念だということができる。だがそうだといって、砂糖という物質は我々の心のなかにだけあって、現実の外的世界には存在しないものだといえるだろうか。

同じようなことは、他人の心についてもいえる。私は他人の存在を、さまざまな知覚を通して確信するようになったが、しかしその確信は私の心のなかの出来事でしかない。わたしはそもそも、他人というものが私の心の外に独立した存在としてあるということが、どうしていえるのか。

このアポリアは後に、カントによって「物自体」として取り上げられ、人間の認識と世界との関係の焦点として浮かび上がるのであるが、ロックはとりあえずそのような難問の存在に軽く言及するのみで、深く考察しようとはしなかった。ロックは物事を漸次的に前進させることが大事であって、始から完璧を求める必要はないという立場を取っていたからだ。

ともあれ、ロックがこのように心に先立って物質的なものをまず優先したことは、彼が唯物論を展開しているのだという印象を人々に与えた。しかしロックは決して唯物論者などではなかった。別に唯物論の立場に立たなくても、物質と心の関係について、長大な議論を展開することはできるのだ。





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