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ベンヤミン「暴力批判論」:神話的暴力と神的暴力


ヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」は、法と権力についてのきわめてアクチュアルな議論である。この議論がアクチュアルにならざるを得なかったのは、執筆当時の社会情勢が働いているためである。ベンヤミンがこれを書いた1921年という年は、ドイツ革命の曲がり角に当たる年であり、革命的ゼネストをめぐって様々な議論がなされていた。ベンヤミンは、法と権力の本質を暴力と定めたうえで、(革命的ゼネストというかたちの)プロレタリアートによる暴力の行使はどのようにして正当化されるか、という点について議論を深めていくのである。

ベンヤミンがこの論文を書く気になった直接のきっかけは、おそらく、社会民主党が中心になって成立した共和主義的な議会が、革命的ゼネストと言う新しい暴力を背景に生まれたにかかわらず、いったん権力を握るや、自分を成立させたはずの暴力に対して敵対的な姿勢をとったことにあるのだろう。そのことについて、ベンヤミンは次のように書いて、鋭く批判している。

「議会は、かつて自己を成立させた革命的な力を忘れてしまったので、周知のみじめな見世物となっている。ことにドイツでは、議会のためのかかる暴力の最後の表明も、無効に終わった。議会には、そこに代表されている法措定の暴力についての感覚が欠けている」(「暴力批判論」野村修訳、以下同じ)

ここで、「暴力の最後の表明」といわれているのは、訳注がいっているとおり、1920年の「カップ一揆」を始めとした、当時の革命的な状況を指すのであろう。そうした状況は、ドイツ革命をさらに推進していく原動力になったはずなのに、社会民主党はそれに敵対する姿勢を取った。それは社会民主党が中心となった当時のドイツ議会に、「法措定の暴力についての感覚」が欠けていたためだ、その結果ドイツは革命に向けての折角の機会を自ら台無しにしてしまった、
とベンヤミンは言いたいのだろう。

ともあれこうした問題意識に立って、ベンヤミンは「法措定の暴力」についての考察を進めて行くのである。

まずベンヤミンは、法と暴力の関係についての伝統的な見方を検討する。その見方とは簡単に言えば、目的と手段の関連である。つまり、正しい目的を実現する手段として用いられる限りにおいて暴力は正当化され、また暴力が適法に用いられている限りにおいて目的の正しさも保証される、とする見方である。

これは、自然法および実定法の両方から根拠づけられる。自然法は、原始状態における人間には、自己保存のために暴力を用いることが正当な権利として認められているとする。この場合には自己保存が目的であり、暴力はそれを実現するための手段である。また、実定法は、あらゆる法の規定が適法に行使されることを求めており、また、適法に行使されることを通じて、法が設定している目的の正しさも保証されるのだとする。目的が正しくなければ、それはいずれ挑戦を受けるであろうから。以上の関連をベンヤミンは、次のように定式化する。

「自然法は、目的の正しさによって手段を『正当化』しようとし、実定法は、手段の適法性によって目的の正しさを『保証』しようとする」(同上)

目的と手段に関しての以上のような関連は、理論的には、国家レベルだけではなく、個人レベルにも適用されて不思議はないはずである。たとえば自己保存を目的とした暴力行使は無条件に許されるといった具合に。ところが、

「現代ヨーロッパの法関係は、権利主体としての個人についていえば、場合によっては暴力をもって合目的的に追及されうる個人の自然目的を、どんな場合にも許容しないことを、特徴的な傾向としている」(同上)

つまり、現実の国家においては、暴力は個人の手には留保されておらず、すべて国家に集中している。国家だけが、正当に暴力を行使しうる唯一の主体なのだ。だが、近代国家の中でひとつだけ、暴力の行使を容認されている例外的なケースがある。労働者のストライキ権だ。

「国家の見方とは対立する労働者の見方から見て、ストライキ権は、何らかの目的を貫徹するために暴力を用いる権利である」(同上)

あらゆるストライキが暴力的であるとは限らないが、それが何らかの目的を貫徹するために行われる限り、暴力的になる可能性はある。国家は、ストライキが単発的かつ局所的に行われる限りにおいて、それを大目に見るのが普通であるが、ストライキの規模が一定程度の大きさに達し、階級闘争的な様相を見せるようになると、それに厳しく対峙する。というのも、そのようなストライキにおける暴力が、新たな法の措定をもたらす可能性があるからであり、それは国家にとっては、自らの権力(=暴力)に対する深刻な挑戦となるからだ。

「国家がこの暴力を恐れるのは、どこまでもそれが法措定的なものだからであって、そのことは、国家が強大な他国に交戦権を、階級にストライキ権を許容するのを迫られる時に、これを法措定的な暴力として承認せざるを得ないことと、相通じている」(同上)

ここへきて、法と暴力の関連についての、一段と進んだ考察が表面化する。これまでは、伝統的な見方に従って、法と暴力とを、目的と手段の関連として見て来たわけだが、では、そもそもその目的はどのようにして設定されたのか、といった疑問に対しては、ペンディングのままにしておいた。いまやそれが、答えられる段階になったわけである。その答えとは、法は暴力(=権力)によって措定されるというものである。

ここで、法、正義、権力についての、ベンヤミンなりのテーゼが宣言される。

「法の措定は権力の措定であり、その限りで、暴力の直接的宣言の一幕にほかならない。正義が、あらゆる神的な目標設定の原理であり、権力が、あらゆる神話的な法措定の原理である」(同上)

ベンヤミンは、法というものは権力つまり暴力によって措定されるのだということを強調しつつ、それは神話的な法措定の原理だともいい、また、正義という言葉を持ち出して、正義とは神的な目標設定の原理であるとも言っている。それは、どういうことか。

ベンヤミンは、ギリシャ神話におけるニオベの伝説を例に出して、神々の怒りという神話的な暴力が人間の世界に新たな規範、すなわち法をもたらしたことに着目する。そのような神話的な暴力は、法を措定するという点で、法措定的な暴力である。問題なのは暴力なのであって、正義ではない。正義が問題になるのは別の次元においてである。その別の次元での暴力をベンヤミンは神的暴力と呼んでいる。

例によってベンヤミンは、神話的暴力についても神的暴力についても厳密な定義をしているわけではなく、しかも文脈上からして突然といってよいような遣り方でこれらの概念を持ち出してくるので、読者としては面食らうことがあるが、我慢して読んでいると、神的暴力とは、法措定暴力としての神話的暴力を乗り越えていくための概念装置なのだろうと思わせられる。というのもベンヤミンは、神的暴力と神話的暴力とを、全面的に対立関係にあるものとして叙述しつつ、後者を否定的に、前者を肯定的に説明しているからだ。

「神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。親和的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は境界を認めない。前者が罪を作り、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である」(同上)

神的暴力とは、既成の権力(=神話的暴力)を根こそぎ転覆するような暴力のことをいうらしい。こうした暴力の二項対立的なあり方を、ベンヤミンは、ソレルの議論を材料にしながら、労働者階級のストライキ権のあり方に適用する。

ソレルは、労働者によるゼネストを、政治的ゼネストとプロレタリア・ゼネストに区分する。政治的ゼネストとは、ある政治的要求を満たすためになされるゼネストであり、その要求が満たされ時点で収束される。収束の後では、労働者にとっての新たな権利が設定されるから、これをベンヤミン流に法措定的なゼネストと呼ぶことが出来る。これに対してプロレタリア・ゼネストは、既成の階級秩序そのものの破壊を目指すものである。その意味で、ベンヤミンがいう神的暴力に近い。

「政治的ゼネストが法措定的であるのに反し、プロレタリア・ゼネストはアナーキスティックだ」(同上)

つまり、プロレタリア・ゼネストは、政府の転覆を目的に行われるかぎり、アナーキスティックなのである。それ故、国家は法措定的なゼネスト以上に、プロレタリア・ゼネストに敵対する。それがたとえ、実際の暴力を伴ったものでなくとも、暴力的だとか、テロだとか言って、厳しく非難するわけである。

「国家は、まさに非暴力的なプロレタリア・ゼネストをこそ~これと、事実上は恐喝的な大多数の部分ストライキとは、対照的なのに~暴力呼ばわりして、これにまっこうから対峙してくる」(同上)

ここまで読んで来れば、ベンヤミンがアナルコ・サンディカリズムに一定の感情移入をしていたことが窺われる。ベンヤミンは後に、マルクス主義に傾斜していくのであるが、その前段として、アナーキスティックな反権力イメージを抱いていたということができよう。以下の宣言的文章は、ベンヤミンのアナーキスティックな心情をよく反映したものだと言える。

「国家暴力を廃止するときにこそ、新しい歴史的時代が創出されるのだ」(同上)


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