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篠原資明「ベルクソン」


篠原資明はベルクソンの哲学を、あるキーワードを手がかりに考察する。それは「われわれはどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか」という言葉だ。この言葉は、ゴーギャンが自分の有名な絵のタイトルとして使ったものだ。それをベルグソンが使った。ベルグソンはこの言葉を持ち出すについてゴーギャンの名に言及していないが、たぶん意識はしていたと思う。ゴーギャンのその絵は非常に有名だったから。

この言葉を篠原が、ベルグソン解読のキーワードとして持ち出したのは、ベルクソンの思想を、その独自の進化論を中心に考察したいからだといふうに伝わってくる。ベルグソンはユダヤ人だから、ユダヤ的な思考に馴染んでいたはずなのだが、かれの進化論は、ユダヤ教の教える神による無からの想像とは全く異なっている。ベルグソンは、世界の創造の現場に、とりあえず神を持ち出さない。神を持ち出すと、ユダヤ人としての立場からは無からの創造に触れないわけにはゆかない。ところがベルグソンは、神ではなくて、ある抽象的な原理が世界を生んだと捉えている。その原理とは、例の「アラン・ヴィタール」というやつだ。その原理が一撃となって世界を生んだ。生まれた世界は引き続きこの同じ原理によって駆り立てられ、今日まで進化してきた。その進化は二つの大きな流れとなって、それぞれの先端に人類と膜翅類の昆虫(蜜蜂や蟻)が位置する、というのがベルクソンの進化論の基本的な内容である。

ベルクソンの進化論は、このように、世界の創造とその進化発展というイメージからなっているわけだが、大事なことは、その進化の始まりをどう捉えるかということだ。それには例のエラン・ヴィタールをどう捉えるかがかかわってくる。この原理を神とは異なった別の原理だと捉えれば、神なき創造ということになるが、それを別の言葉で言い換えた神だと捉えれば、世界はやはり神によって創造されたということになる。

一方、世界が創造されたあとの進化発展については、これもベルグソンはかなりユニークなイメージを持っていた。それについて篠原は、ベルグソンが連続的な創造を語っていたと解説する。宇宙はたえず新たに創造されているというのだ。ということは、世界の創造を、神により一挙になされたと見ないわけである。それはどういう意味を持つのか。

ユダヤ教の聖典でもある旧約聖書は、世界は神によって無から創造されたと明言している。何もなかったところに、神が何者かを持ち込んだ。その結果世界が生まれたと考えるわけである。このように、世界を存在と無の対立としてみる見方は、とくにキリスト教文化圏では有力である。キリスト教文化の結晶である西洋哲学は、無と存在との関係についての議論を繰り返してきたといってもよい。そうした問題意識はライプニッツの有名な言葉、「なぜ無ではなく、存在があるのか」という言葉で象徴される。

ベルグソンは、こうしたキリスト教の常識を覆す。キリスト教の常識では、世界は神によって無から創造され、また一旦神によって創造されたあとは、基本的にはその原初の姿のままに存在し続ける。だから、キリスト教の正統な考えには進化論の存在する余地はない(いまでもアメリカのキリスト教原理主義はダーウィンの進化論を邪説として排撃している)。ところがベルグソンは、世界は神の手によってではなく、エラン・ヴィタールという別の原理によって存在への一撃を蒙り、それによって存在するようになったあとは、たえず変化発展してきた。その変化発展は生成という言葉で表現される。ベルグソンにとって生成とは、存在が絶えず生まれかわるというものである。すでに存在しているものが変化発展するのではなく、絶えず新たなものが生まれ出される、というふうに考えるわけである。

この絶えず新なものが生み出されるという考えは、大乗仏教(特に唯識背説)の言う刹那滅の思想に似ている。刹那滅とは、あらゆる存在は瞬間的にあるにすぎない、一瞬にして消滅し、それに引き続いて別の存在が生起する。われわれが恒常的な存在と思っているものは、この刹那ごとに生滅を繰り返しているものが、あたかも映画のフィルムの回転の効果のように見えるにすぎない、

井筒俊彦によれば、大乗仏教もユダヤ神秘主義も同じような考えに立っている。それは世界の生成を、瞬間ごとの生滅の繰り返しとみる見方で、旧約の言うような無からの創造とはまるで違った考えだ。それをベルグソンは意識しながら、独特の進化論を唱えたいう可能性はある。進化は連続的・直線的なプロセスではなく、つねに新たに創造されなおす断続的プロセスであり、それをベルクソンは創造的進化と呼んだわけであろう。

進化は時間の中で起きるものだ。その時間をベルクソンは持続として捉えた。その持続は、とりあえずは人間の意識の状態だということになっているが、篠原はそれを世界全体の存在様式に活用する。世界は持続としては、始まりもなければ終わりもない、ただ生成のプロセスがあるだけだ。ベルグソンといえども、エラン・ヴィタールによる一撃のおかげで世界が生まれたというような言い方はするが、それはおまけのような言い草であって、一旦世界が創造されてしまえば、そのこと事態が問題とされることはない。あとは、世界がどのように持続するかを考えればよい。ベルグソンはその持続を、たえず瞬間的に生滅するプロセス、つかり瞬間ごとに存在が消滅し、別の新たな存在が生成する、その繰り返しによってもたらされるものが、映画のフィルムの回転がもたらすイメージと同じようなイメージをわれわれに示すと考えるわけだ。

こんな具合に、篠原のベルクソン論は、創造的進化を中心にして展開される。したがって本来意識のあり方を説明するための概念であった持続が、世界そのものの存在様態として解釈されなおされる。篠原なりのベルクソンの読み直しというべきか。



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