知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学プロフィール 掲示板



デリダによるハイデガー晩年の「精神」概念解釈


ハイデガー晩年の「精神」概念は極めて特異なものである。それは深く特定の民族性と結びついている。つまりドイツ的な民族性である。世界中の民族のうちでドイツ民族だけが、真の意味での精神を持っている。その他の民族は、偽の精神しか持ちえない。だから本物の哲学を語ろうと思ったら、ドイツ語で語らねばならない。なぜならドイツ語だけが真の精神を体現しているのであり、真の精神こそが哲学の源泉だからである。それゆえフランス人が哲学を語るときには、かれもドイツ語で語らざるをえないのである。

もっともハイデガーは、ドイツ民族以外にも精神性を認めないわけではない。たとえばギリシャ人やラテン系の言葉を話す人々も、それなりの精神性を持っている。だがその精神は浅はかなものに過ぎない。なぜかと言えば、それらはギリシャ的・形而上学的な観念とかキリスト教的道徳観念に毒されているからだ。そのような汚染を排した純粋な精神性が問題なのであり、その純粋な精神性を体現したものがドイツ精神なのである。

ドイツ語では、精神は Geist といい、その形容詞形は Geistig とか Geistlich である。これらのドイツ語は他の言語、たとえばフランス語には翻訳不可能である。そこでデリダもそれらのドイツ語を無理にフランス語に訳そうとはせず、ドイツ語のもとの形のままで使っている。しかしてそれらの間に、微妙なニュアンスの相違を設定している。それを簡単に言えば、 Geistig はギリシャ的・キリスト教的な意味合いでの精神に近く、 Geistlich のほうなドイツ民族固有の精神性を表現する言葉だということになる。1930年代半ばごろ(「形而上学入門」を刊行した時期)までは、ハイデガーは geistig という言葉を使い、それで精神性を代表させていた。ところがそれでは、ドイツ民族固有の精神性が表現されないという理由で、晩年には Geistlich という言葉を使うようになった。

Gestlich という言葉で表されるドイツ的な精神とは、果たしていかなるものか。ハイデガーはそれを「火、炎、炎上、燃焼」であると定義する。火とか炎といった言葉は、息を連想させる。じっさいハイデガーは精神を、息と深く関連付けて解釈するのだ。息は魂でもある。魂=息=火=精神という類縁性を持った言葉群が、ハイデガーによるドイツ的な精神の定義を支えているのである。

息という言葉はギリシャ語にもあるし(Pneuma)、フランス語(Esprit)にもある。だがギリシャ語やフランス語では、息と精神とは不可欠な結びつきにあるとは言えない。ドイツ語においてのみ、息は精神と不可分のものとして結びつくのだ。その結びつきの衝撃から火が生じる。それが精神なのだ。

火としての精神は絶対的なものである。そういう意味での精神は、物質との対立にある精神ではない。そのような精神の定義は相対的なものである。ドイツ的な意味での精神はそのような相対的な意義のものではない。それは絶対的な価値を帯びているのだ。

絶対的なものとしてのドイツ的精神は、ギリシャ的・形而上学的精神とも、キリスト教的精神とも違う。真の意味での精神を把握するためには、ギリシャ的あるいはキリスト教的な偏見を排さねばならない。これまで西洋の歴史において、精神が本来の姿であらわれなかったのは、ギリシャ的・キリスト教的な偏見が支配していたからだ。それゆえ真の哲学は、ギリシャ的・キリスト教的枠組みの否定の上にたてなおされねばならない。こうしたハイデガーの問題意識が、ニーチェの強い影響を思わせるのは自然なことである。

ハイデガーが求める精神は、ギリシャ的・キリスト教的な偏見から自由になった本来的な精神である。それをハイデガーは前根源的精神と呼ぶ。それは「キリスト教に、キリスト教の起源<われわれがそれにいくつかの名を与えることができる当のもの>にさえも疎遠で、さらにもっと徹底してプラトン的形而上学とその帰結全体に疎遠であり、東洋ー西洋の走行に対するある一定のヨーロッパ的規定に疎遠であるような」(港道隆訳)ものである。

そのハイデガーについて、デリダはこうも言う。「夕暮れの国(=西洋)を通り抜けて最も根源的なものへと、ハイデガーとトラークルとの Gesprach(対話)がわれわれを呼び招く先のものへと回帰を果たす円環は、聖書(=遺言)と呼ばれるものからヘーゲルやマルクス、その他何人かの近代人に到るまで、われわれがそれについて思惟を相続した諸々の循環(=革命)とは全く別のものだということになろう」。

こうしたハイデガーの問題意識に、デリダは共感するわけではない。むしろ逆である。デリダはそうしたハイデガーの自民族中心主義に、胡散臭いものを感じるのだ。ただ、哲学者の端くれとしては、「胡散臭い」という言葉を投げかけるだけでは能がない。そこでデリダは、ハイデガーがキリスト教を否定するようなふりをしながら、じつはそのキリスト教の土俵の中で戦う仕草を見せているにすぎないと喝破するのである。

その喝破がどのような理屈に支えられているのか、それについてデリダは詳しく語らない。それはデリダ自身の苦い体験からきているのだと思う。デリダもまた西洋思想の脱構築を目指したことでは、ハイデガーの轍を踏んていると言える。だがその脱構築が何を生んだのかについては、自信をもっていうことができないでいる。デリダ自身、自分が脱構築というときには、脱構築の対象となった西洋の伝統的な言語システムの枠内で語っており、その限りにおいて、西洋思想の外には出ることができないでいる、と認めざるを得ないからだ。そんな無力感を、デリダはハイデガーにも感じたのではないか。




HOMEフランス現代思想デリダ次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2022
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである