知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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フーコーの不変の部分と変遷した部分


フーコー論の筆をひとまず擱くに当たって、フーコーの思想を俯瞰しなおしておこう。するとそこには、終始変らなかった部分と、時間の移り行きとともに変わっていった部分とが見えてくる。大事なことは、フーコーの思想の変らなかった部分、それは彼の思想の核心といえるものだが、それを明らかにすることだ。その上で変っていった部分を跡付けていくと、彼の思想の全体像が見えてくるのではないか。

まず、変らなかった部分。これは社会の中で抑圧される立場にいる人達へのフーコーの視線だ。実質的な処女作と言ってよい「狂気の歴史」においては狂人たちへの、中期の代表作「監獄の誕生」においては犯罪者たちへの、そして未完に終わった晩年の大作「性の歴史」シリーズにおいては性的倒錯者たちへの、という形で、終始社会の中で抑圧される立場にいる人達への暖かい、連帯感に裏付けられた視線を、フーコーは生涯にわたって保ち続けた。それはフーコー自身が同性愛者という、やはり社会的に抑圧される立場に置かれていたという個人的な事情にも促されて、彼の生涯を貫く問題意識として働き続けたものと思われる。

この視線に導かれてフーコーが生涯にわたって追求し続けたのは、こうした被抑圧者がどのようなメカニズムを通じて生み出されるのかということだったといえる。そのメカニズムを、初期のフーコーは社会が内在させている疎外の抗いがたい力として捉え、中期のフーコーは人々の認識を制約している外在的な力に求めた。その外在的な力というのは、構造主義者たちのいう構造のようなもので、人間の認識や行動の様式を制御する。それをフーコーは、「言葉と物」ではエピステーメーという形で捉え、「知の考古学」では「知」の体系として捉えたわけだ。そして中期から晩年にかけてフーコーは、権力に目を向けることで、人間の認識や行動の様式を根底で制御しているのは権力なのだという考えに到達する。

最晩年の著作(「快楽の活用」と「自己への配慮」)では、性の歴史に即して、人間関係が結局権力によって制御されているということを明らかにしながら、その権力が、権力というものの本質からして、社会的かつ歴史的起源を有するのだという、考古学的な立場を強調するようになる。ここに至ってフーコーは、自分の思想的な立場がニーチェの系譜学に多くを負っているということを明らかにしたわけである。

フーコーが最終的に到達した思想の構図は次のようにまとめることが出来よう。歴史上のどんな社会においても、そこで支配的な価値観とか行動の様式とかは、一定の「知」の体系によって制御されている。その知の体系は、その社会のなかで現に生きている人間には永遠不変のもののように見えるが、実は歴史的な起源を有している。その起源にあってそれらの体系を作り出したのは、その時点で支配的な立場にあった人間たちの集団であり、彼らが自分たちの利害を貫徹し、保証するエンジンとして作り上げたものである。従ってそれは支配集団の階級的な利害を反映している。彼らの階級的な利害を貫徹するもの、それが権力であり、権力が形を持ったものとしてのエピステーメーなり「知」の体系なのである。

この構図を展開したものとしては、「性の歴史」は理想的な範例となったであろう。フーコーは、自分自身がその一人の当事者として受け止めた性についての禁止と抑圧の体系、なかでも同性愛者をはじめとした所謂「性的倒錯者」たちへの抑圧が、どのようなメカニズムによって行われているか、そのメカニズムにはどのような歴史的起源があるのか、その起源においてそのようなメカニズムを作った人間集団はどのようなものであったか、彼らが行使した権力の内実はどのようなものであったか、そのなかでフーコーと同じような性的少数者たちはどのように抑圧されてきたか、こうした事柄を分析・展開して見せるのが「性の歴史」に込めたフーコーの意図だったように思われる。

残念なことに、「性の歴史」は完成されなかった。フーコーの死によって中断されてしまったからだ。この著作は、第一部の「知への意思」と第二部・第三部とのあいだに時間的にはもとより内容的にも一定の断絶があり、まとまりを持った著作とはいえないところがあるのだが、その内容を精読すれば、概ね上述のような構想に従って書かれていることがわかろう。ただ、それまでの著作と違って、歴史の時間軸に沿って淡々と記述している印象が強いので、そこに体系的な意図を読み取ることはなかなか出来ないかも知れぬ。

また、フーコーがもっとも拘った同性愛者たちへの抑圧の問題について、フーコーはそれを「性の歴史」の続編において展開するつもりであったと考えられ、したがって書かれたものの中ではあまり言及していない。つまりフーコーは、自分の最も書きたいことを最後まで保留しておいて、その前段の足固めをするだけで燃え尽きてしまったわけだ。もしそれが書かれていたとしたら、フーコーは自分が生きてきたそのあり方を、自分の生きていた社会の枠組のなかにきちんと位置づけすることが出来ただろう。たとえそれが苦さをともなう認識であったとしても。




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