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ハイネ「ドイツ冬物語」


1843年の初冬、ハイネは1831年初夏にドイツを去って以来12年ぶりに故国を訪れる。動機は色々あっただろう。年老いた母に会いたいという願いが一番強かったようだ。紀行詩「ドイツ冬物語」のなかでは、ホームシックになったのだと言っている。そのほか、ハンブルクの本屋カンペとの間に、将来の出版契約を結ぶこともあった。その契約によって、妻のマティルダが自分の死後も路頭に迷わないように配慮したのだった。

このドイツ旅行の際の見聞を長編詩に仕立て、それを「ドイツ冬物語」と題して翌年出版した。カンペとの契約にしたがい、「新詩集」を出すことになったハイネは、この長編詩を、「新詩集」の付録のような形で出した。題名を「冬物語」と題したのは、ハイネがドイツを旅行したのが初冬のことだったからだ。

ハイネは当時ドイツでは危険人物と見られており、堂々とドイツ領内を歩き回ることができない状況だった。そこで面倒を起すのを恐れたハイネは、ドイツ奥深くではなく、周辺部を伝って目的地のハンブルクに向かった。ハンブルクには母親や妹が住んでおり、また、カンペ書店がハイネの本の出版を引き受けてくれる見込みがあった。そんなわけでハンブルクを目指したハイネは、オランダからブレーメンに行き、そこから船でハンブルクに向かったのである。

ところが「ドイツ冬物語」では、ハイネはまず、ベルギーから独白国境の都市アーヘンに入り、そこから馬車を飛ばしながら、ケルン、ハーゲン、ミンデン、ハノーファーを経てハンブルクに至っている。詩の構成は、前半がアーヘンからハンブルグに向かう紀行記、後半がハンブルクの滞在記という形をとっている。紀行記の部分は、それぞれの土地にゆかりのある事柄やら、それをきっかけにしたハイネのドイツ批判が展開される。ハイネのドイツ批判は、フランスやイギリスと比較しながらドイツの後進性を皮肉るというものだ。そのドイツをハイネは次のように表現している。
  陸はフランス人とロシア人のもの
  海はイギリス人のもの
  だが、われわれドイツ人は、空の夢の国で
  支配権を持つことは疑いない(井上正蔵訳)
つまりドイツ人は、いつでも夢見心地に生きていると言っているわけだ。

ともあれこのような構成にしたのは、ハイネのドイツへのこだわれのあらわれだろう。そのドイツ人はいまだに封建的な眠りの中にまどろみ、ハイネのような進歩分子はうさん臭い目で見られている。ハンブルクのような先進都市の場合は多少緩やかだが、ベルリンでは非常に厳しい目が向けられる。娘たちでさえ自分をいかがわしいと感じている。「アルスター湖畔ではそれほどではないにしても、あのシュプレー河畔の教養ある多くの娘たちが、ぼくのつまらぬ詩をみて、多かれ少なかれ、まがった鼻にしわをよせ、いやな顔をするだろうということが、残念ながら、いまからわかるのです」とハイネは嘆いている。

ハンブルクの母の家につくと、母は両手を打ちあわせて喜びの表情をたたえ、
  ねえ、おまえ、あれからもう
  十三年にもなるんだねえ!
  きっとお腹がぺこぺこだろう
  さあ、なにが食べたい?
と聞くのだった。ハイネは魚と鵞鳥の肉とオレンジを所望する。ハンブルクは北海に近いので、新鮮な魚が手に入るのである。

ハンブルクは、前年(1842年)の大火災のため、町の大半が焼失した。ハイネが着いたときは復興の最中だったが、少年時代に親しんだ風景の大部分が消え去っていた。そんなハンブルクの町をハイネはそぞろ歩くのだ。そのハンブルクは、ハイネのようなユダヤ人にとっては住みやすいところだったようだ。「ハンブルク都市国家の住民は、大昔からユダヤ人と、クリスチャンからなっている」とハイネは言っている。ハンブルクはドイツ最大の商業都市であり、商業の民ユダヤ人とは相性がよかったのだ。そのユダヤ人はさらに二つの党派に分かれているとハイネはいう。古い党派はシナゴーグへ、新しいものはテンペルへいく、と。「テンペルにいくユダヤ人」とは、ハイネのような改宗キリスト教徒をさすらしい。

ハイネは早速本屋のカンペと一杯やり、そのあとドレーバーン街を訪れる。遊郭街らしい。ハンブルクの遊郭街としてはレーバーバーン街が有名で、小生もそこを訪れたことがあるが、ドレーバーン街のことは知らなかった。ともあれその街でハイネは一人の恰幅のよい女性と出会う。その女性はハンモシアと名乗り、ハンブルクの守り神だと自称する。そんな女性にハイネは忠誠を誓うのだ、「ではすぐお供しましょう、お先にどうぞ、あとからついてきます、たとえ地獄の中へでも」と言いながら。ハイネは若いころに女遊びが好きだった。その遊び心が久しぶりに刺激されたのであろう。

そのハンブルクの守り神に向かって、ハイネは心のたけを披露する。自分が長い間故郷を離れてホームシックになったこと、自分がいかにドイツを愛しているかを。
  いつもあんなに軽やかなフランスの空気が
  ぼくを押し付けるようになりました
  ぼくはドイツで息をつかずにいられませんでした
  窒息してしまわないために
  ・・・
  ぼくはかつて自分がにがい涙をながして泣いたところで
  泣きたかったのです
  祖国愛とは、このような愚かしい
  憧れをいうのだと思います

この長編詩の最後は、当時のプロシャ王フリードリヒ・ウィルヘルム三世への忠告の呼びかけだ。
  おお、王さまよ! ぼくはあなたを思えばこそ
  あなたに忠告してあげたい
  死んだ詩人は尊敬なさるがいい
  だが、生きている詩人はいたわらねばならぬ
  ・・・
  古い神々を、新しい神々を
  全オリンポスの一族を 
  さらに最高の神エホバを侮辱するのはいい
  しかし、詩人だけは侮辱してはならない!

結局この旅はハイネにとって、どんな意味を持ったのか。単にホームシックをいやすためでなかったとはいえそうだが、だからといって、なにか積極的な成果が得られたともいえない。ドイツはハイネの思惑を超えて、しぶとく古い体質を温存しているように見えたのである。だからハイネはドイツにとどまることはできなかった。この旅と前後して、あのカール・マルクスがハイネの前に現れた。マルクスもドイツの専制政治が耐えられずに、自由なパリに亡命せざるを得なかったのだ。 


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