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第三次中東戦争:イスラエルとパレスチナ


1967年に勃発した第三次中東戦争は、イスラエル・パレスチナ問題の性質を劇的に変化させた。それまでは、イスラエル対アラブ諸国の対立という形をとっていたものが、この戦争で敗北したアラブ諸国が次第にパレスチナ問題にコミットしなくなって、イスラエルとパレスチナ難民勢力とが直接対峙するという構図ができあがっていく。その構図は今日まで基本的にはかわらない。つまり1967年を境にして、イスラエル・パレスチナ問題は新たな局面に移っていったわけである。

この戦争は、イスラエルが仕掛けたものだった。イスラエルが(エジプトへの奇襲攻撃を皮切りにして)一方的に先制攻撃を仕掛け、わずか六日間で完璧な勝利を収めた。その結果イスラエルは、ヨルダン川西岸、ガザ地区、シリアのゴラン高原、エジプトのシナイ半島を占領した(図のとおり)。イスラエルはイギリスが設定したパレスチナ地域の全体を手に入れたほか、シナイ半島などを含めると一気に五倍の土地を占有したのである。これは国際法違反の無法行為といってよかったが、国連はほとんどなすすべもなく、またイスラエルも国際世論をあざわらうように無視した。


(図 第三次中東戦争の結果 Wikipediaから)

イスラエルがこの戦争を仕掛けた理由については、色々な解釈がなされている。一つは、イスラエルにはパレスチナ全土をユダヤ人のものとしたいとする基本方針があって、それを実現するために戦争を起こしたとするものである。イスラエルは、第一次中東戦争によって、国連決議によってユダヤ人に割り当てられた部分を超える土地を獲得したが、それではまだ不十分だと思っていたようだ。また、ユダヤ教の聖地エルサレムを獲得できていなかった。そんなことから、イスラエル国家の仕上げとして、パレスチナ全体の領有に向って動いたとする。この解釈は、イスラエル国家の膨張主義的な性格を踏まえたものである。その膨張主義のはずみで、本来イスラエルとは関係のないシナイ半島まで侵略したのであった。シナイ半島の占領は、国土防衛上の要請からなされたもので、第二次中東戦争で逃した獲物をもう一度取り返したというものだった。

もう一つ、当時イスラエルが置かれていた経済的な苦境をあげる解釈もある。当時のイスラエルは深刻な不況に陥っており、それが災いして人口減少も起きていた。当然国民の不満も高まっていた。そうした不満をそらすものとして、近隣の土地を侵略し、あわせてそれによる経済の浮揚効果を狙ったというわけである。そうしたイスラエルの都合によって、従来パレスチナに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)は大量に難民化したのであった。

戦後国連はこの問題について安保理決議を採択した(国連安保理決議242号)。それは、「領土と和平の交換原則」に基づくもので、「イスラエルがこの戦争で占領したアラブの領土を返還すれば、アラブ側はイスラエル国家の生存権を認める」という内容だった。つまり第一次中東戦争でイスラエルが獲得したものを追認し、1967年以前の状態を固定化しようとするものだった。この国連決議の精神は、いまでも有効とされているが、イスラエルはこれを無視する態度を続けている。近年ではそうしたイスラエルの態度をアメリカが後押しするようになってきた(トランプの中東和平案)。

そのアメリカがイスラエルを重視するようになるのは、第三次中東戦争以後のことである。それまでのアメリカは、冷戦対策とかアラブの石油資源への配慮もあって、どちらかというとアラブ諸国を重視してきた。それがこの戦争を契機にイスラエル重視に変わったのは、イスラエルが中東の軍事大国として、地域の安定に大きな影響力を持つことを認めたからであった。イスラエルは、中東地域が共産化することへの防波堤になりうる。そうした期待がイスラエルをアメリカのパートナーとして認めさせる原動力になったわけである。

アメリカの思惑とは別に、アラブ諸国はパレスチナ問題にかかわることを次第に敬遠するようになった。それぞれ個別に対峙しても勝てる相手ではなかったし、また共同で立ち向かってもかなわないと悟ったからだろう。アラブ諸国はまとまりがなく、一致団結してイスラエルと戦うという体制にはなかなかならなかったのである。

アラブ諸国の応援が期待できないことで、パレスチナ人自身が直接イスラエルと向きあう構図ができた。その構図も今日まで基本的には変わっていない。その構図のなかではイスラエルが圧倒的な強者である。イスラエルはそれをよいことに、好き勝手放題なことを行ってきた。占領地へのユダヤ人入植を強行し、抵抗するパレスチナ人を情け容赦なく虐殺してきた。女性や子供を含む罪もないパレスチナ人がユダヤ人によって虐殺されてきたのである。そのなかにはホロコーストとしか表現できないような陰惨なものもある。イスラエルのユダヤ人は、かつてナチスによって加えられた自分たちの同胞の苦しみへの意趣返しを、全く関係のないパレスチナ人を相手に晴らしているといっても過言ではない。

イスラエルと対決するパレスチナ人を代表する組織として、PLOの役割が高まった。PLOは1964年にできた組織だが、パレスチナ解放をうたっていながら、実際にはパレスチナ人のはねかえりを抑える機能を果たしていた。パレスチナの開放ではなく、その抑え込みを目的としていると揶揄されたものだ。それがパレスチナ解放のスローガンを本格的に掲げるのは、ヤシール・アラファトが議長に就任した1969年2月以降のことである。アラファトはPLO内の最大勢力ファタハの代表であった。ファタハは、1968年3月に、ヨルダン川東岸にあるカラメのパレスチナ人難民キャンプに侵攻してきたイスラエル軍を撃退したことで一気に名声を上げていた。アラファトはその名声に支えられてPLO議長になったのであった。

だが、PLOはヨルダン政府との間で軋轢を起した。その軋轢はヨルダン内戦と、いわゆる「黒い九月」事件をもたらした。ヨルダン内戦は1970年9月に、PLOの軍事組織とヨルダン軍が軍事衝突したもので、首都アンマンのパレスチナ人難民キャンプを舞台にして、大勢の一般市民が殺傷された。また、パレスチナ人武装組織「黒い九月」のメンバーが、パレスチナ人への弾圧を強めたヨルダン首相ワスフィー・アッ・タルを暗殺する事件が起きた。「黒い九月」は後にミュンヘン・オリンピック事件を引き起こす。

PLOはヨルダンを追われ、レバノンに本拠地を移した。ヨルダンとPLOが和解するのは1985年のことである。



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