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サイード「パレスチナとは何か」


エドワード・W・サイードは、アメリカに居住するパレスチナ難民を自称し、パレスチナ人のために発言を続けた数少ない知識人だった。なにしろ、サイードも言うとおり、パレスチナ人といえばテロリストと決めつけられるくらい、国際的に評判が悪かった。そのパレスチナ人を擁護するサイードの発言は、ユダヤ人の影響力の強いアメリカはもとより、世界的な規模でも孤軍奮闘の観を呈していた。それでもサイードはめげることなく、パレスチナ人の立場に立った発言を続けた。1986年の著作「パルスチナとは何か」もそうしたパレスチナ擁護の目的で書いたものだ。

普通の本と違って、写真家ジャン・モアとのコラボレーションである。モアが撮影したパレスチナとパレスチナ人の映像をもとに、それにサイード自身の感想を加えて、今日(つまり1986年)パレスチナ人が置かれている不条理な境遇について考察している。それを読むと、映像の生々しさと相俟って、パレスチナ人の苦境がありありと伝わってくる。

パレスチナ人問題とは、近代史が生んだ奇妙な出来事の一つだ。パレスチナ人とは、もともとパレスチナと呼ばれる土地に住んでいたアラブ人なのだが、それが第二次大戦後、ユダヤ人が勝手にパレスチナの土地に国家を「建設」したことで、パレスチナを追われ、中東を中心にして、世界中に散らばることとなった。これは、いまから二千年前にユダヤ人が被ったのと同じ運命を、ほかならぬユダヤ人によって舐めさせられたということで、それ自体がスキャンダラスなことなのだが、なぜか世界中の世論は、パレスチナ人の被った不条理な仕打ちに無関心で、むしろパレスチナ人がユダヤ人に抗議して行っていることを、テロだとか犯罪的だとか言って責め立てるというのが現状なのだ。サイードはそうした現状に、強い異議を称えるのである。

サイードがこの本を書いた時点で、世界中のパレスチナ人の数は約450万人。そのうち183万人(40パーセント)は歴史的パレスチナ(イスラエル及びヨルダン川西岸等の占領地域)にいる。その他の268万人のうち、108万人はヨルダン、40万人はレバノン、25万人はシリア、80万人ほどはその他のアラブ地域、18万人が世界中のその他の地域に暮らしているということだ。歴史的パレスチナに住んでいるパレスチナ人はさらに、イスラエルとヨルダン川西岸及びガザ地区に別れるわけだが、イスラエル内のパレスチナ人(アラブ人)は、サイードは言及していないのだが、別の統計によれば、160万人ほどにのぼる。その統計とサイードの使っている数字とではかなりの誤差があるが、おそらくサイードの使っている数字のほうが大雑把なのだろう。

イスラエル国内に住んでいるパレスチナ人は、ユダヤ人たちによって二級市民扱いを受けている。それらのパレスチナ人にサイードは同情していない。むしろユダヤ人に屈服したいくじなしとして、軽蔑している。イスラエルの外に住んでいるパレスチナ人は、同じアラブ人であるにかかわらず、居住先の国によって、異邦人として差別されている。今の中東では、アラブ人としての連帯よりも、国ごとのナショナリズムのほうが優勢なのであり、パレスチナ人は、あくまでも外国人扱いなのだ。

そんなわけだから、パレスチナ人は、地球上のどこでも、二級市民として扱われたり、異邦人として差別される境遇にある。それは国を持たない民族の悲哀ともいうべきものだが、パレスチナ人から国を奪ったユダヤ人のほうが、国際的には影響力をもっているので、パレスチナ人の抗議は一向に効を奏さないのだ。

なぜそうなったか。サイードは苦々しい感情を隠さずに、その理由を分析している。その結果たどり着いた結論は、ユダヤ人は狡猾な連中であって、その連中にうぶなパレスチナ人がはめられたということだった。ユダヤ人も悪かったが、パレスチナ人はそれに輪をかけてナイーブだったというわけだ。ナイーブと言うと聞こえはいいが、要するに阿呆だったということだ。そのことをサイードは苦々しい気持ちを込めて認めている。

サイードがもっとも癪にさわるのは、アラブ世界が束になってかかっても、ユダヤ人にかなわないことだ。ユダヤ人には、組織的な能力があり、それぞれテンデバラバラなアラブ人とは戦争遂行能力が各段に違う。それに加え、ユダヤ人にはアメリカが後ろ盾としてついている。アメリカの膨大な援助に支えられながら、ユダヤ人は持ち前の組織能力を発揮して、束になったアラブを簡単に粉砕できるのだ。ちなみに、2013年の時点で、イスラエルのユダヤ人は570万人ほどだったが、ほぼそれに相当する数のユダヤ人がアメリカ国内に住んでいる。

そんなわけだから、パレスチナ人が持ち前の国を獲得して、ユダヤ人のイスラエルと対等になれる日はなかなかやってこないだろうと、サイードはなかば諦めているようである。サイードがこの本を書いた時点でも、パレスチナ人の未来の展望は悪くなる一方だったし、21世紀になってネタニヤフのような男がイスラエルの権力を握ると、パレスチナ人はますます未来を奪われるようになった。自分の国を持った経験を持たない若者が増える中で、パレスチナ人は、かつてのユダヤ人がそうであったように、国を持たない流浪の民というアイデンティティを、いやがおうにも持たされつつあるようだ。気の毒なことではある。




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