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おそれとおののき:キルケゴールの信仰意識


キルケゴールの著作の中でも、「反復」と「おそれとおののき」は一対のペアとして論じられることが多い。いずれも同一の問題意識をきっかけにして書かれた。その問題意識とは、レギーネとの関係について、もう一度自分の考えを整理しておきたいというものだった。キルケゴールは、レギーネとの婚約を解消した後、「あれかこれか」を書くことで、そのことについての自分の立場を弁明するとともに、レギーネが名誉を保ったまま自分と別れられるようにと取り計らったつもりだったわけだが、その後、レギーネから心のこもった挨拶をされたことで、もしかしたらもう一度彼女との愛をやり直せるのではないかという希望を持つに至り、その希望が「反復」を書かせた。「反復」とは、当初は「愛のやり直し」を意味していたのである。ところがこれを刊行する前に、レギーネは他の男と婚約してしまった。そこでキルケゴールは「反復」を書き直すとともに、「おそれとおののき」を書いた。「反復」の決定稿では、愛の反復が不可能だったことを振り返り、「おそれとおののき」では、自分がレギーネを手放さなければならなかった理由を、あらためて論じたのである。

そんなこともあって、この作品は「あれかこれか」の延長上にある。この作品の著者名として用いられている「沈黙のヨハンネス」は、「誘惑者の日記」を書いたヨハンネスを想起させる。つまり、コーデリアことレギーネを誘惑して捨てたそのヨハンネスつまりキルケゴール自身が、その捨てた、と言うか捨てざるを得なかった理由を、直接レギーネに語りかけたかった、というふうに考えられる。

しかし、この作品は、こうした当初の思惑を超えて、「あれかこれか」のような単なる弁明にとどまらず、キルケゴール自身の抱いていたユニークな思想に形を与えるものともなった。その意味でこれは、キルケゴールの思想が始めて本格的に述べられたものといえる。以後のキルケゴールの思想の展開は、この作品で述べられた概念を腑分けして展開するという方向をとった、といってもよい。

この作品は、旧約聖書にあるアブラハムの物語を題材にしている。アブラハムと妻のサラには子供が生まれなかったが、アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、神から子供を授かった。彼らはその子をイサクと名づけ、慈しみながら育てた。ところがある日、神がイサクを生贄に捧げるようにとアブラハムに命じた。アブラハムは沈黙したままイサクを伴ってモリアの山にいき、そこでイサクをナイフで切り裂こうとした。その瞬間アブラハムの目の前に羊が現れ、それをイサクに代って生贄に捧げるよう神から命じられた。かくしてイサクは再びアブラハムの手に戻った。つまりアブラハムは、いったんは失ったイサクを再び取り戻したのである。それを可能にしたのは、神へのアブラハムの信仰であった。

これがアブラハムの物語なのであるが、キルケゴールは何故この物語がレギーネに対する自分の行為に係わりがあると考えたのか。キルケゴールは、自分の信仰のためにレギーネを神にささげたとでもいいたかったのだろうか。しかし、もしそうだとしたら、キルケゴールはレギーネが再び自分の手に戻ってくることを心のどこかで期待していたことになる。ところがレギーネは戻ってこなかった。ということは、キルケゴールはレギーネを殺してしまったということになる。それはキルケゴールにとって衝撃的なことだったに違いない。何故なら、それはアブラハムの物語において、羊が現れないまま、アブラハムはイサクを切り裂き、いとしい息子を永遠に失ってしまうのと同じことを意味するからだ。それでは信仰は失われるだろう。

この矛盾ともいうべき事態を、おそらくキルケゴール自身も意識したに違いないのだ。だからこそ、この作品はレギーネへの弁明ということを超えて、もっと奥深い問題、つまり人間の信仰とはなにか、という問題に取り組むきっかけになったのだろう。

「こんにちでは、誰もが信仰で立ちどまらずに、さらに先へ進んでいく・・・あの昔の時代には事情が違っていて、信仰ということは一生涯の仕事であった。つまり信ずるという技倆は、数日や数週間で身に着くものとは考えられなかったのである。あの頃は、立派な戦闘をたたかって信仰を守りとおしたかの練達の老人たちは、臨終にのぞんでも、その心はなお若々しく、若い日を鍛えたあの不安とおののきを忘れはしなかった」(桝田啓三郎訳、以下同じ) 序言でこのように言った上で、キルケゴールは信仰というものがどのようなものなのかについて、アブラハムの物語を手掛かりに考えていこうというのである。

序言に続く「調律」の部分で、アブラハムを巡る物語を、キルケゴールなりに再解釈したものが四つのヴァージョンで示され、「アブラハムをたたえることば」を挟んで、いよいよ本題において、信仰の本質が明らかにされていく。

まず、キルケゴールはアブラハムの行為の意味を、倫理的観点からと宗教的観点からと、二つの方向から考える。倫理的な観点とは、我々人間社会を律している規律、それにはキルケゴールのいう通俗的な宗教意識も含まれるわけであるが、そうした倫理的な観点から見れば、アブラハムの行為は許されない。父には子どもを殺す権利はないからである。ところが宗教的な観点からすれば、アブラハムの行為は少なくとも意味を持つ。つまり彼は神を信じたのであり、その信じるという行為には宗教的な意味が含まれているはずだからである。ともあれ、この二つの観点の相違を、キルケゴールは次のように言う。

「アブラハムのなしたことは、倫理的に表現すれば、彼はイサクを殺そうとした、のであり、宗教的に表現しようとすれば、彼はイサクをささげようとした、のである。ところが、ほかならぬこの矛盾の中に、人を眠れなくなることにできる不安があるのである」

しかしこの不安には、理屈によって説明できるようなものはない。理屈ではアブラハムの行為は説明できないのだ。だからキルケゴールも、「アブラハムを理解することはわたしにはできない。ある意味において、わたしは驚嘆することしか彼から学ぶことができない」といって、自分はアブラハムの行為について驚嘆することしかできないという。結局、信仰は理屈では推し量れない。キルケゴールの言葉でいえば、「信仰とは、思惟の終わるところ、まさにそこから始まるものだからである」

この言葉はパスカルを連想させる。パスカルもやはり、思考の終わるところから信仰は始まるといい、人は信仰に向かって深淵の裂け目を飛び越えるのだといった。また、信仰を含む理念の問題は人間の合理的な思考とは次元を異にするものだといったカントとも、一脈通じあうところがある。

この倫理的なものと宗教的なものとの関連についてキルケゴールは、「問題」の展開部の中で更に詳細に追及している。

「倫理的なものは、倫理的なものである以上、普遍的であり、普遍的なものである以上、すべての人に妥当するものである。これを他の面からいいかえると、いついかなる瞬間にも妥当するもの、ということである・・・個別者は普遍的なもののうちに自己のテロスを持つ個別者であって、彼の倫理的課題は、自己自身をたえず普遍的なもののうちに表現し、自己の個別性を止揚して普遍的なものとなることである。この個別者が普遍的なものに対して自己の個別性を主張しようとするや否や、個別者は罪をおかすことになる」

ここでキルケゴールが倫理的なものとして叙述している内容は、ヘーゲルの言説をそのまま繰り返したようなものである。ヘーゲルに典型的にみられるように、倫理的なものの本質は、個別者を普遍者との関わりにおいてのみ考えるという点にある。ところが宗教はそれでは成り立たないとキルケゴールはいう。宗教というのは、普遍者のひとつの例としての個別者ではなく、絶対的な個別者を問題にしている。その絶対的な個別者が直接神と向き合う、そこに真の宗教が成立する。そこでの個別者は、大衆の一員としての個別者ではなく、たったひとりの個別的存在、すなわち単独者のことをいうのである。

このように個別者の宗教的な意義を強調したうえでキルケゴールは、「信仰とはつまり、個別者が個別者として普遍的なものよりも高くにあり、普遍的なものに対して権能を与えられており、その下位に従属しているのではなく、その上位にあるという逆説なのである」という。

こうしてこの画期的な作品は、神の前における単独者の概念に到達することで、その後のキルケゴールの思索のあり方に、ひとつの、しかし決定的な、方向付けを与えたわけなのである。


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