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永遠回帰:ニーチェの時空論


「永遠回帰」は、ニーチェの思想の中で最もわかりにくいものだというふうに、少なくともニーチェと同時代のヨーロッパ人によって受け取られてきたし、現在のヨーロッパ人の多数にとっても事情は変わらないだろうと思う。時間が永遠に回帰するなどという言い分は、時間には始まりがあり、したがって終りもあると考えるキリスト教文化圏の人々にとって理解しがたい考えに違いない。

しかし、東洋人にとっては、少なくとも我々日本人を含めて仏教的世界観になじんだものにとって、この考え方は、そんなにわかりにくいものではない。いや、かえって馴染みのある考え方ともいえる。というのも、仏教的世界観とそのもととなったヒンドゥー的な世界観にあっては、人間を含めて一切の生き物は輪廻転生するのであるし、世界は直線的な時間ではなく、円環的な時間にそって展開するというふうに考えるからである。永遠回帰とは、その円環的な時間の展開を別の言葉でいいかえたというふうに受け取れるのである。

ニーチェは、仏教についてある程度の知識を持っていたようだが、永遠回帰の思想を思いつくにあたって、仏教の円環的な時間概念を意図的に採用したかどうかについては、確証はない。彼のテクストを読む限りは、キリスト教的な直線的時間概念に完璧に対立するものとしての非直線的時間概念として、円環的な時間概念を対置したというふうに受け取ることができる。

キリスト教的な時間概念とは、時間を直線的な進行として捉えることに特徴がある。世界は神によって創造され、終局に向かって直線的に進んでいく。そのように考えるのだ。

ニーチェは、このような考え方に正面から挑戦した。その証しとして、キリスト教的な時間概念を否定したのである。キリスト教的な時間概念に代るものとしてニーチェが持ち出したのが、円環的な時間という観念である。

直線的な時間概念では、過ぎ去った時間は戻って来ることはない。円環的な時間概念では、時間は何度でも回帰して来る。時間が回帰するというのは、同じことが何度も繰り返される、と言うことを意味しうる。そこから永遠回帰という思想を思いつくのは、そう難しいことではない。

仏教的世界観になじんだものなら、永遠回帰は輪廻転生を別の言葉で言ったものにすぎないと聞こえる。輪廻転生は、生き物は何度も生まれ変わるということを述べたものであって、同じことが何度もくりかえされるということを強調してはいないが、何度も生まれ変わるということのうちに、時間は回帰するのだという確信が含まれている。

ともあれニーチェは、永遠回帰という概念を持ち出すことで、キリスト教的な世界観をくつがえそうとした。キリスト教的な世界観は、人間世界の外部に終極の目的を設定し、人間世界はそれに向かって直線的に進んでいくのだと主張するわけだが、ニーチェは、時間は永遠に回帰するのだということによって、そうした直線的な歩みの意義を否定した。人間は直線的な時間を進んでいくのではなく、円環的な時間のうちを常に循環している。目的は彼の外部にあるのではなく、彼の内部にある。いや目的というもの自体がナンセンスである。何故なら終局という意味での目的は永遠回帰というプロセスにとってはありえないからである。世界は目的も意味ももたない、ただ存在するだけ、それも循環する運動体として存在するだけなのである。

こういうふうにとらえると、永遠回帰の思想には否定的な契機しかみられないように映るが、ニーチェはそれを単に否定的なものにとどめず、積極的な位置づけをも与えたいと考えた。この概念がわかりにくく映るのは、その積極性のためなのである。

たとえばニーチェは、ヴァーグナー婦人コージマ宛の書簡の中で、自分自身が永遠回帰しているさまを、次のように書いている。

「私が人間だというのは偏見です。私はすでに幾度も人間たちのなかで暮らしましたし、人間が経験できるすべてのことを、卑小なことから最高のことまで知っています。しかし私はインドでは仏陀でしたし、ギリシャではディオニュソスでした。アレクサンダーとシーザーは私の化身です。~最後にヴォルテールとナポレオンでもありました。ひょっとしたらリヒャルト・ヴァーグナーであったかもしれません。今回は勝利に輝くディオニュソスとしてやってまいりました。・・・天はすべてを挙げて私の到来を歓喜して迎えています。私は十字架にもかかったことがあります」(三島憲一訳)

つまりニーチェは自分自身を、永遠の円環的な時間の中で様々な人間となって循環回帰しているものとして描いているわけである。世界とは私自身のことなのだ、過去も、また未来も、わたしという存在の中で永遠の現在に回帰するのだ、というのである。

この文章を読んで、そこに狂気の影を感じないものはいないだろう。我々東洋人にとっては変哲もない思想でも、ヨーロッパ人にとっては、存在を震撼させられるほどのインパクトを持つ場合があるのだろう。永遠回帰とは、そのようなインパクトをもった思想だったようだ。


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