知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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西田幾多郎のベルグソン論


西田幾多郎は、同時代の直感主義的流れの中でも、ベルグソンに最も親近感を抱いたようである。もっとも「善の研究」を書いたときには、まだベルグソンに親しんでいたわけではなかった。「善の研究」における純粋経験の立場は、ウィリアム・ジェームズに刺激されるところが大きかったのである。ところが、ジェームズの場合、純粋経験の概念は、もっぱら心理的現象を説明するためのものであって、それ以外の分野においては、別の原理を採用していた。純粋経験をもとにすべてを説明し尽くしたいと考えた西田にとって、ジェームズのそのような立場は中途半端に映った。ベルグソンの直感主義は、そうした中途半端さを感じさせない。それは、人間の意識現象は無論、世界のすべてを根拠付ける原理というふうに、西田には受け取れた。こんなことから、ベルグソンへの西田の親近感は、並々ならぬものへと深まっていったようなのである。

ベルグソンを直接論じた西田の文章としては、「ベルグソンの哲学的方法論」及び「ベルグソンの純粋持続」と題した二編の小論が「思索と体験」に収められている。ここではそれらを材料にして、西田のベルグソン論を見てみたい。

「ベルグソンの哲学的方法論」では、ベルグソンのいうところの直感と分析との比較について取り上げている。ふつう我々が科学的知識と言っているものは、分析的な方法によって得られたものであるが、それはものごとを外から眺め、あるものごとと別のものごととの相対的な関係を知ることを目的とする。これを概念的知識というが、その知識の意義は有用性にある。すなわち、我々が生きていくうえで有用なことがらを教えてくれるもの、それが概念的知識である。しかし、この知識は、ものごとを一面的に捉えたものであるから、おのずから制約がある。この方法を以てしては、実在をその全体相において、生き生きと捉えることはできない。それができるのは、直感である。直感とは、ものごとを外部から眺めるのではなく、ものごとの内側に入り込んで、それを生きることだといってよい。こうすることで初めて、我々は世界の実相をありのままに経験できる。

西田は、ベルグソンの直感主義をこのように整理したうえで、直感の内実であるところの純粋持続の考察に移る。「ベルグソンの純粋持続」は、それをコンパクトにまとめたものである。

ベルグソンのいう純粋持続とは、基本的には人間の意識のありようについて語ったものである。人間の意識というのは、混沌とした直感の不断の流れとして捉えることができる。その不断の流れの中から、生命の躍動の実感とか対象の概念的認識とかいうものが生まれてくる。だから純粋持続は、我々人間の最も原初的で基本的なあり方をさしているわけである。

意識の原初的あるいは基本的あり方というのは、萌芽的とも言い換えられるから、それはさまざまな可能性を孕んでいるわけである。そのさまざまな可能性がそれぞれに花開くことによって、さまざまな結果が出現する。そしてその結果についてはさまざまに解釈することができる。西田は西田なりにそれを解釈するわけだが、そのやり方というのは、当然のことといってよいが、自分自身の純粋経験にひきつけての解釈ということだ。

西田の純粋経験のもっとも重要な点は、それで以てすべての実在を説明できる根拠になりうるということだった。西田はこの純粋経験から「場所」の概念を取り出してきて、自己を含めた世界のすべての実在は、場所の自覚的な限定によってもたらされると考えた。純粋経験はだから、単なる認識論的レベルの概念にとどまらず、存在論的な概念でもあったわけである。

西田はこの存在論的色合いを、ベルグソンの純粋持続にも見ようとする。それは、人間の意識のありようとして、単に認識論の問題領域にとどまる事柄ではなく、世界がそこから生成してくるところの、存在の根拠としての色合いを持っていなければならぬ、と考えるわけである。

このへんをうまく説明しようとして、西田はベルグソンの次のような議論を持ち出す。純粋持続には、張り詰めた状態から緩んだ状態までのさまざまな緊張の度合いがある。最も張り詰めた状態にあっては、純粋持続は生命の躍動感として感じられる。そのときには、純粋持続は生命そのものと一体化する。反対に、最も弛緩した状態にあっては、純粋持続はばらばらに拡散して、夢のごときものとして映る。「ここにおいて我々の自己は忽ち拡散し、過去の歴史は個々独立せる無数の記憶の並列的関係に配置せられ、我々のパーソナリティは空間的関係の中に陥ってしまう。こういう風に相連続せる縦線的経験を個々独立せる横線的即ち空間的関係と並列し、外より相互の関係を見たるものが知識であって、かくして成立したものが即ち物質界である」(「ベルグソンの純粋持続」から)

つまり、自己を含めてこの世界というのは、純粋持続の諸段階を表したものだというのである。純粋持続が緊張した状態が躍動する生命をもたらし、弛緩した状態が物理的・自然的な世界を産み出す、というわけである。

ベルグソンが言っているのはおそらく、人間の意識状態たる純粋持続が、さまざまな度合いの緊張を経ることで、我々の世界認識のありようが異なってくるということなのだと思うのだが、西田はそれを拡大解釈して、純粋持続の諸段階を以て、世界のそれぞれのあり方の根拠とする。つまり、純粋持続に存在論的な役割を付与しようとするわけである。


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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015
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