知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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西田幾多郎を読む


西田幾多郎は、とにかく難解だという定評がある。上田閑照のような、西田幾多郎研究に生涯をささげた学者でさえ、一度や二度読んだくらいでは理解できないと言っているくらいだから、普通の読者が読んだらほとんど理解できないのではないか。それでも「善の研究」程度なら、なんとか理解できる人がいるだろう。だが、今日岩波文庫から出ている三巻本の論文集を、読破することは至難のわざではないか。ましてや、西田幾多郎全集を読破するなど、並みの人間には不可能事に近いと言ってよい。

だが、上田閑照も言っているように、辛抱強く読み進み、西田一流の用語を少しづつものにしていけば、自ずから道は開けると思う。要は忍耐と情熱である。その結果、西田哲学の骨格ともいえるものが次第に見えてくるのではないか。

西田哲学の根本的な特徴は、直感という形で意識に与えられた純粋経験から出発することにある。しかも、その純粋経験を、単に認識論の問題に限定するのではなく、存在論の基盤とも考えた。西田幾多郎の存在論は、純粋経験をあらゆる存在の根拠とするもので、その意味では、仏教的な三界唯心を思わせるところがある。じっさい西田は、親友の鈴木大拙を通じて、禅を中心とした仏教の思想に慣れ親しんでいた。

純粋経験に即して言えば、西田幾多郎は、新カント派の経験一元論的な立場やベルグソンらの直感主義の立場から、これを思いついたのだと思う。それだけなら西田は、あまりユニークな思想家にはならなかっただろう。単に新カント派やベルグソンらの直感主義の亜流くらいの位置づけで終わったことだろう。だが西田幾多郎はそこにとどまらなかった。それは西田が、先ほども触れたように、純粋経験を実在と考え、そこから(西田なりに)壮大な存在論を展開したということから来る。ここではそんな西田幾多郎の思想について、考えてみたい。



西田幾多郎をどう読むか
西田幾多郎の純粋経験:「善の研究」を読む
思惟も純粋経験である:西田幾多郎を読む
純粋経験から自覚へ:西田幾多郎を読む
自覚から場所へ:西田幾多郎を読む
場所の論理:西田幾多郎を読む
述語論理:中村雄二郎の西田幾多郎論
論理の理解と数理の理解:西田幾多郎の数学論
西田幾多郎のベルグソン論
西田幾多郎の叡知的世界
絶対無の自己限定:西田幾多郎を読む
西田幾多郎の隠喩的思考:連想ゲームとしての哲学
弁証法的一般者:西田幾多郎を読む
行為的直観:西田幾多郎を読む
絶対矛盾的自己同一:西田幾多郎晩年のキーワード
西田幾多郎と禅
西田幾多郎の神
逆対応と平常底:西田幾多郎晩年の宗教論

廣松渉の西田幾多郎批判
小林秀雄の西田幾多郎への言いがかり


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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015
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