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ワーニャ伯父さん:チェーホフの戯曲


チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」は、「かもめ」に引き続き、ロシアの地主階級の家族を描いたものだ。地主といっても、広大な農地を持つわけでもなく、大勢の農奴を抱えているわけでもない。だが、汗水流して働かなくても済むほどの農地は持っている。その農地にしがみつくようにして、生きている人々がいる。この戯曲は、そうした小地主一家ともいうべき人々の日常を描いた作品である。

筋書きらしい筋書きがない点は、「かもめ」以上にあっさりしている。なにしろ、登場人物たちには、ドラマチックな要素はこれっぽっちもなく、ただ退屈そうなおしゃべりにうつつを抜かしているばかりなのである。そういう退屈なおしゃべりを通じて、ロシア人のものの考え方とか、感性の特徴とかを、浮かび上がらせようというのが、どうもこの戯曲の狙いらしい。この戯曲を読むことで、あるいはその演出を見ることで、ロシア人は自分たちロシア人のロシア人らしいところを再確認し、外国人はロシア人の何たるかを多少は理解した気持ちになれるというわけであろう。

では、そのロシア人のロシア人らしいところとは何か。男について言えば、それはワーニャ伯父さんに代表されるように、自分というものに対して無自覚で、毎日を惰性的に生きているが、いざ自分の存在が脅かされると、めくら滅法に騒ぎ立てる、そんな情けない人物像がロシア男の典型ということになりそうだ。一方、女性について言えば、これも自分というものを持たず、男に頼りがちになるが、頼るべき男が得られないと、陽炎のようにはかない生き方に甘んじなければならない、といった人物像である。こうした人物像は、短編小説のなかでもチェーホフが好んで取り上げたものだったが、この戯曲ではそれが典型的な形で示されているといってよい。

ある小さな農場を持つ一家が田舎屋敷に会する。その屋敷はセレブリャコーフという退職教授の所有ということになっているが、それはもともと彼の財産ではなく、先妻のものであった。先妻の父親が、娘の持参金代わりに、農地と屋敷とをプレゼントしてくれたのだ。その農地と屋敷とを、教授は先妻が死んだ後でも自分のもののように考えているが、それは先妻との間に生まれた娘ソーニャの後見人としての立場にもとづくものらしい。

劇には、このセレブリャコーフとその後妻エレーナ、先妻の娘ソーニャのほか、ソーニャの祖母ヴォイニーツカヤ夫人、その息子でソーニャの伯父にあたるワーニャが出て来る。ヴォイニーツカヤ夫人以下の一族がこの家にいるのは、別に居候としてではなく、ヴォイニーツカヤ夫人にとっては家屋敷の所有者たる娘とその子ども、彼女にとっては孫の財産であるこの屋敷に住んでいるという形なのである。そんなわけでこの家族は、ある種の女系家族と言ってもよい。その女系家族に、元夫であったセレブリャコーフが、いまでも農地や屋敷の正当な所有者面して居座っているというわけである。そういう面では、日本の家族のあり方とはかなり趣を異にしている。

ともあれ、この劇はソーニャとその叔父ワーニャを中心にして進行していく。そのほかに家族以外の人間として、医者のアーストロフが出て来る。このアーストロフをソーニャは深く愛しているのだが、アーストロフのほうでは彼女には目もくれない。かれのお目当てはエレーナなのだ。エレーナはまだ若くて性的な魅力に富んだ女ながら、老人のセレブリャコーフの妻に納まっている。それではさびしかろうと、アーストロフはモーションをかけるのである。一方、ワーニャ伯父さんもエレーナにご執心で、その点ではアーストロフと恋敵の関係になるのだが、肝心なエレーナはワーニャには関心を示さない。そこでワーニャは悶々とするわけだ。

こんなわけで、劇はエレーナを囲む三角関係を中心に展開してゆき、それにソーニャのアーストロフへの片思いが絡んで来る。ソーニャは、自分がアーストロフの心をつかめないのは、器量が悪いからだと自覚している。器量の悪さはどうすることもできないので、彼女には愛する人と結ばれる可能性はほとんどない。そこで彼女は絶望するのだ。絶望しながらも、そこは女のこと。その絶望を受け入れて、生涯を絶望のうちに終えようと決意している。そのあたりは、いかにもロシア女らしいと言えるかもしれない。器量が悪いなりに、自分に見合った男を求めるのではなく、男を持つこと自体、或は男に持たれること自体をあきらめてしまうのだ。そういう女は、日本にもいるかもしれぬが、非常にめずらしいのではないか。

この劇がそれなりの転換点を迎えるのは、セレブリャコーフが農地を売りたいと言い出した時だ。農地からのあがりが少ないので、いっそのこと売り払い、その金をもっと実入りのよいものに投資し、その上がりで生活すれば、もっとましな暮らしができるという算段だ。これには、ワーニャ伯父さんが徹底的に反発する。彼は拳銃まで持ち出してセレブリャコーフを威嚇する。婿だった立場を利用して、そんな勝手な真似はさせないというわけだ。

こうして劇は一気にクライマックスを迎える。そのクライマックスは、一家の解散という形をとる。セレブリャコーフは妻のエレーナを連れて外へ出て行くこととし、娘のソーニャはワーニャ伯父さんたちとともに屋敷に残ることにする。エレーナが去ることで、アーストロフがこの一家を訪ねることはなくなるだろう。ソーニャは未来のない毎日をしのびながら暮らすこととなり、ワーニャ伯父さんは相変わらず愚痴をこぼしながら生き続けるだろう。こんな調子で、クライマックスとは言っても、何も劇的なことは起こらないのである。




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