知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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フォークナー「響きと怒り」


フォークナーの小説「響きと怒り」は、20世紀を代表する傑作という評価が高い。作品自体の迫力がすごいし、その後の世界の文学者たちに及ぼした影響は、計り知れないものがある(と言われる)。日本でも大江健三郎ほか多くの文学者がインスピレーションを受け、とりわけ中上健次はフォークナーの語り口を参考にして独自の文体を確立した。単に模倣されるのではなく、これをきっかけにして新たな文学実験を呼び起こしたと言えるわけで、それはフォークナーの作品の豊穣さを物語るものと言ってよい。

一読して感じることは、この小説がさまざまな点で、従来の小説の枠組みを大きくはみ出ているということだ。まず、時間の取り扱い方。従来の小説は、時間の流れに一本の大きな骨格(あるいは本流)のようなものを設定し、その骨格から多少はみ出る部分があっても、大きな目で見れば本流としての時間の流れには一貫性がある。ところがフォークナーは、この一貫した時間の流れというものを重視しない。彼は、時間を一旦バラバラに解体した上で、それをあとでつなぎ合わせるという方法を取っている。だから読者は、小説を読み進んでも、そこに時間の一貫した流れを直に感じることがない。読者が時間の流れに一貫性のようなものを認めるのは、小説を読み終わった時点なのだ。これは、小説のあり方としては画期的なことといってよい。小説が物語で成り立っているとしたら、物語には起承転結のようなものがあって、それは時間軸に沿って展開するというのが常識的な理解だが、フォークナーの場合には、その時間軸が一定しないわけだから、これは物語とはいえないのではないか、そんな疑問さえ浮かび上がってくる。

次に、語り口。小説家が小説を書く場合、三人称であれ、一人称であれ、語り手というものを設定して、その語り手を通じて小説を進行させてゆく。語り手が複数になる場合もないではないが、その場合にもメインの語り手はゆるぎない存在感を示していて、他の語り手は、そのメインの語り手に対して従属的な役割を果たすにすぎないのが殆どである。それら従属的な語り手の語り方は、本文に対する注釈のようなものだ。ところがフォークナーのこの小説では、複数の語り手が全く同じ水準あるいは資格のもとで、てんでに自分勝手な話をする。彼らは相互に口裏を合わせているわけではなく、自分の言いたいことを言いたいように言っているに過ぎない。要するに複数の語り手にそれぞれ勝手な話をさせながら、それらが最後にはつじつまのある事実に収斂し、その事実を分け合うというような形になっている。このような、語り手の複数性というものは、ドストエフスキーの小説にも見られるところで、バフチンはそれをポリフォニーと呼んだ。ポリフォニーというのは音響の多重性を表す概念だが、バフチンはそれをドストエフスキーの小説に援用して、ドストエフスキーの小説は複数の語り手が奏でる交響曲のようなものだと言ったわけである。ドストエフスキーのポリフォニーは、複数の語り手が同時進行的に語ってゆくという形をとっていた。ところがフォークナーの場合には、複数の語り手が、全く無関係に、従って異次元的に語ってゆき、それが最後に合流して一つの同じ時間を共有するという形になっている。このような語り口の複数性は、世界の文学史上、おそらく始めてのことだったのではないか。

その語り口も実にユニークなものだ。この小説には三人の語り手が登場する。コンプソン一家の四人の子供たちのうち、三男のベンジャミン、長男のクェンティン、次男のジェイソンだ。この三人の語り手たちが、それぞれ自分が体験したある一日の出来事やら感情やら思考やらをアトランダムに語っていくわけだが、その語り口にはまったくと言ってよいほど時間的あるいは空間的な秩序というものがない。それぞれの語り手は、自分の視点から自分の身に起きている出来事について語りながら、突然過去のことを思い出したり、全く別のことに思いを馳せたりと、要するに取り留めのない話を延々と続ける。それは彼らの意識を座標軸にして展開されるから、そこで展開される様々な印象なり感情なり思考なりは、ある程度のまとまりのようなものがあるようで、実は全くない。フォークナーはここで「意識の流れ」と呼ばれる手法を使って、その時々の語り手の意識を捉えたさまざまなことをそのまま叙述させるという方法を取っているのだが、意識に浮かぶ事柄にはたいした必然性は見当たらぬから、よそ目には全く無秩序にしか見えない。その無秩序ぶりは、一人の人間の意識のなかでもそうなのだから、ましてや他の語り手とは何らのつながりもない。それでいて、こうした支離滅裂ともいえる事柄が、最後には一本の糸で結ばれているようなつながりを感じさせるわけなのだ。高等芸というべきだろう。

三人の語り手たちの語り方はそれぞれに違う。ベンジャミンは生まれつきの知的障害者で、知的な能力が極めて低く、したがってその語り口には論理性が欠けている。そんな彼にとっては、自分の思考を客観的な目で見ることなどはできないわけで、従って彼の語り方は、一瞬一瞬のことに捉われた、出来事への無反省な反応でしかない。彼は、ある一つの出来事を体験しながら、それと隠喩のような関係にある様々な出来事、その多くは過去の出来事だが、それらを全く無秩序に思い出したりする。そんな彼を年下の黒人の子供が世話しているのだが、その黒人の子供に馬鹿にされながら、腹を立てることも知らない。彼にとっては、その時々に自分の意識の領野に現れてきた事柄に注意を向けることが精々なのだ。

クェンティンは、ハーバードの学生で、これから自殺しようと思っている。彼がなぜ自殺したいと考えるようになったのか、それは彼の語りからはわからない。ただ彼は、妹のキャディーと近親相姦を犯したと思い込んでおり、それに深い罪の意識を感じているようなので、おそらくその罪の意識が自殺の原因だろうと読者は思うくらいのところだ。ジェイソンは、親が長男のクェンティンばかりを大事にして自分を軽んじたために、自分は大学にもいけず、負け犬のような有様に陥ってしまったと思い込んでいる。かといって両親を深く恨んでいるわけでもない。彼にとっての生きがいは金をためることくらいなのだが、その大切な金を自分の姪に盗まれたといって大騒ぎをするのである。

ところでこの三人がそれぞれに語った日は、全く別の日だ。冒頭にベンジャミンが語ったその日は1928年4月7日である。その次にクェンティンが語った日はその18年前にあたる1910年6月2日である。そしてジェーソンが語ったのは、ベンジャミンが語った日の一日前である1928年4月6日である。この三人が語り終わったところで、小説全体の語り手である第三者が登場し、その語り手が1928年の4月8日、つまりジェイソンとベンジャミンの語った日に続く日に語るという形になっている。この最後の語り手の語りによって、三人の語り手がそれぞれに語ったことがらが相互に結びあわされ、読者は始めて小説の全体像を捕らえることができるわけなのである。

こういう具合にこの小説は、構造の面でもきわめてユニークといえる。三人の語り手にそれぞれ別の話を語らせ、最後に第四の語り手が登場してその三つの話をつなぎ合わせるわけだ。だからこの小説には四人の語り手がいるともいえるし、三人の語り手とそれらを透視するものとしてのメタ語り手から成り立っているともいえる。いずれにしてもこのメタ語り手あるいは第四の語り手は、小説全体の主催者といった役割までは果たしていない。彼の語りを通じて読者が話の全体像をつかめるようにはなっているが、それは読者が一定の想像力を働かせて始めてできることで、語り手のほうから懇切丁寧に説明してくれるわけではない。この小説は、読者にも想像力を働かせることを求めているのだ。小説というものは、小説家からの読者への一方的なプレゼントではなく、小説家と読者との共同の営みによって成立するものなのだ、とフォークナーは言っているようなのである。




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