知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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運命と性格:ベンヤミンの初期思想


ベンヤミンの初期のエッセイ「運命と性格」は、いろいろな点でその後に展開されるベンヤミンらしさを先取りしている。まず、非常に読みづらいという特徴が、早くもあらわれている。日本語訳で岩波文庫版12ページに過ぎないにもかかわらず、これを読み切るにはかなりの忍耐が必要だ。その難解さは、比喩的な表現を多用していること、その裏返しとして、厳密な用語の定義を踏まえずに、いきなり聞きなれぬ言葉が概念をまとった状態で縺れ合うといった観を呈していることによる。

だいたい、このエッセイのテーマである「運命」と「性格」というものについても、ベンヤミンは用語を厳密に定義することをせずに、読者が当然にわかっているということを前提にして話し始める。実際このエッセイの冒頭は、次のような調子なのである。

「運命と性格はふつう因果的に結ばれたものと見なされており、性格が運命のひとつの因子になると思われている」(「運命と性格」野村修訳、以下同じ)

これは、運命と性格とが関連を持った一対の概念であり、それについては、ひとびとは因果関係の相のもとで理解しているということを述べたものであるが、後になって、この理解は間違っていると宣言されるので、いったいベンヤミンは、運命と性格という一対の概念のそれぞれの内包をどのように考えているのか、読者はワケが判らなくなるのである。もっともエッセイを読み進むにしたがって、すこしずつ縄の結び目がほどかれていき、最後には運命と性格とが、相互に反発し対立しあう概念だということが明らかにはされる。しかし、それでもなお、運命と性格それぞれの概念の内包が明らかになるわけでもなく、そもそもベンヤミンがなぜ、この一対の概念を問題として取り上げたのか、そこのところもすっきりと説明されているわけではないのである。

たしかにそうなのではあるが、ここではとりあえず、ベンヤミンのいうことに耳を傾けてみよう。上述の表現でベンヤミンは、運命と性格とがある種の因果関係にあるという人々の想念について、それの妥当性を分析してかかる。まず、その想念が妥当だとすれば、次のようなことが言えるだろう、という。

「誰かの性格が、したがってまた彼の持つ反応様式が、あらゆる細部にわたって知られているとともに、他方で世の中の出来事が、その性格と触れ合う諸領域では、すべて知られているとするならば、その性格にどんなことがふりかかるかも、彼が何をするかも、精密に予知できるだろう」(同上)

これはある種の決定論である。性格と運命との一定の組み合わせのもとでは、ある人の運命は既知であると言える。もしそうならば、その人の未来の予言が可能だということになり、したがって占い師にも一定の効用を認めてやらねばならなくなる。そういってベンヤミンは早速、性格と運命との関係を、占いと関連させて論じるのだ。

しかし実際には、人は決して運命を予言することなどできない。何故なら、性格とは過去と現在にかかずらわるものなのに対して、運命は未来に関わるのであり、したがってこの二つのものは、人々がそう考えているように、密接に関連しあったものではないから、とベンヤミンはいう。両者の間には断絶があるのだ。だから、性格をもとに、その人の未来を予言することなどできないのだ。

性格と運命との間に深い断絶があることは、両者それぞれの概念の内包をよく分析してみれば見えてくる。性格には潔白さだとか幸福による明るさだとか言ったものも含まれている。しかし、運命の概念にはそうしたものは含まれてはいない。運命の概念に含まれているのは、不幸とか罪といった要素ばかりだ、そうベンヤミンはいう。

「いったい運命には、幸福への関連があるのだろうか? 不幸は疑いもなく、運命にとって本質規定的なカテゴリーの一つだけれども、幸福もまたそうだろうか?・・・幸福は潔白とひとしく、人を運命の圏外に連れ出す」

運命が不幸とか罪とかいった要素から成り立っているのは、運命が外から強制されたものだからだ。人は外から強制されたものを、桎梏としてしか受け取ることができない。そして桎梏は不幸の源なのだ。

外から強制されているといった点では、運命と法とはよく似ている。法もまた、罪だとか不幸とかいう要素を概念の内包として持っている。人々は法によって罪過あるものとして断定され、その結果不幸な運命を甘受せねばならない身に陥るのだ。

こう考えれば、運命と法とは同じものの裏表であり、運命は法の別のあり方なのだということが見えてくる。

「法連関の中にあるのはひとり罪だけだ、と想像しては間違いだ。むしろ、あらゆる法的な罪過はひとつの不幸にほかならぬ、ということが指摘されうる。法的規制が人間関係のみならず人間の神々への関係をも規制していた段階、人間のデモーニッシュな存在段階の、残りかすにすぎない法秩序が、誤解されて~現在にまで~なお維持されているわけである」(同上)

どちらも個人の外側から個人に強制される規範である点で共通している。だから、法の執行者である判事はまた、人の運命を左右する存在でもある。

「判事は、好きなところに運命を見ることが出来る。刑を課することによって、彼は必然的に、わけもわからずに運命を課しているのだ」(同上)

これに対して性格の方は、かならずしも運命によって虐げられるばかりではいない。それは、時によって自らの運命を打破することもある。そうすることで彼は、自分を運命のくびきから解放する。性格には、こうした解放のイメージが結びついている。

「性格のビジョンは、どんな形式をとろうと開放的であり、ここでは例証はできないけれども、殆ど論理的に、自由と関連している」(同上)

これは、過酷な運命が偏在していた太古の時代の人々には考えられなかったことだ。彼らは、法によって課せられた運命を生きる以外に、どう生きたらよいか、わからなかったのである。それをわかることのできた初めてのひとは、ギリシャ悲劇におけるヒーローたちである。ヒーローは、人間が運命の頸木を脱して、性格になりつつある過渡的な形象なのだ。

ベンヤミンの思考の軌跡をここまでたどってくると、我々は、ベンヤミンがここで論じているのは、共同体と個人との関係であると気づかされる。このエッセイの中でベンヤミンは、共同体とか個人といった言葉は一切用いていない。彼が用いているのは運命と性格という一対の言葉である。だがその言葉は、それ自体としては、非常にわかりにくし、また哲学史上よく知られてきたどんな概念とも似ていないために、読者はそこから、なにか有意義なアイデアを引き出すのがむつかしい。それに対して共同体と個人といった言葉は、哲学の歴史を背景にしたわかりやすい言葉であり、その概念の内包も所与のもととしてあつかうことができるので、ある意味生産的な議論が期待できる。

しかしベンヤミンが、そうした歴史の背景を踏まえた既知の言葉を用いずに、まったく新しい言葉を、それも厳密な定義を抜きにして持ち出したということの背景には、ベンヤミンなりの打算があったのだろうと思う。




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