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ベンヤミン「認識批判序説」:理念、モナド、星座


「ドイツ悲劇の根源」は、ベンヤミンが教授資格論文としてフランクフルト大学に提出したものである。ところが審査にあたったコルネリウスは、「中味が全く判らないので、内容の要約を作ってもらったが、それもまた理解できなかった。弟子のホルクハイマーにも読んでもらったが、彼も理解できないといってきた」といって、これを棄却した。ここで「内容の要約」と言われているのが「認識批判序説」なのだが、たしかにコルネリウスのいうとおり、この論文は非常にわかりにくい。

ベンヤミンの文章は、これに限らずわかりづらいのが多いのだが、その理由は、彼が体系性と言うことを気にかけていないということにある。体系性というのは、叙述の論理的連続性とテーマの目的合理性ということを特徴としているものだが、ベンヤミンはそのどちらにも無頓着なのである。つまり、かれは意図的に文章を中断して連続性を断ち切ることが多いし、また、通常の言説が目的とするような真理の探究を軽視してもいるのである。

文章の中断ということについては、ベンヤミンは、「観察の一段階ごとに立ちどまることを読者に余儀なくさせる場合にのみ、静観的な叙述は自信を持てる。対象が大きければ大きいほど、この観察はそれだけ多く中断する」(「認識批判序説」野村修訳、以下同じ)といっている。また、「認識の対象は真理と完全には一致しない」とも言っているが、真理と一致しない対象を語ることにどんな意義があるのか。すくなくとも、これらの文章からは、ベンヤミンがわざと読者を困惑させるような書き方をしている姿勢が伝わってくる。だから、彼の文章はわかりづらいわけなのである。

こういうわけでこの論文には、相互に断絶しあったいくつかの言説がちりばめられているのだが、そしてその諸言説には耳を傾けるに値するものが多く含まれているのだが、とにかくわかりづらい。そんなわかりづらい言説の中から、ここでは理念をめぐる言説を取り上げてみたいと思う。

理念は、カントによって実在性のヴェールをはがされてしまって以来、哲学上の教説としてはいまひとつ迫力がなくなってしまったのだったが、カントより以前には、客観的に実在するものとして、大いなる権威を誇っていた。それを哲学のフィールドに持ち込んだのは、いうまでもなくプラトンである。プラトンは理念こそが実在そのものであり、個々の現象はその影にすぎないといって、理念に強固な存在性格を付与した。ベンヤミンがこの論文の中で試みているのは、そんなプラトン的な理念を復活させることではなかったか、どうもそんな風に受け取れるところがある。

しかし、いかにベンヤミンといえど、20世紀に生きている思想家としては、理念の実在性を頭から持ち出すわけにはいかない。そこで彼は、ひとつの比喩を持ちだすのである。

「理念の意義は、ひとつの比喩で叙述できるかもしれない。理念の事物に対する関係は、星座の星に対する関係に等しい、と・・・理念は永遠の星座であって、点としての諸要素がその星座の中に組み込まれることにより、現象は個別化されると同時に、救済される」(同上)

これはあくまでも比喩であるから、当然わかりづらいところがあるが、要するに理念と認識対象(現象)、普遍と個別との関係を、星座と星との関係に譬えているのである。星座は星が集まって形成されるわけであるが、星の単なる集合にはとどまらず、それ独自の様相を呈している。その様相は、見る人によって様々な形に形象化され、人間はその形に応じて、ある星座をかに座と呼んだり、別の星座をオリオン座と呼んだりするわけだ。

しかし蟹の形象としての星座と個々の星との間にどんな関係が成り立つというのだろう。プラトンの光源としての理念と、その影としての現象というのは、比喩としても非常にわかりやすいが、星座としての理念と、個々の星としての現象とはいかなる関係にあるのか。それは、この文章からは明確にはならない。

しかもこの理念なるものは、およそ人間の認識の対象ではないという。

「諸理念の存在は、およそ観照~たとえ知的な観照であっても~の対象として考えられるようなものでは、ありえない・・・概念的な意図において規定される対象としての認識の対象は、真理ではない。真理は意図とは無縁に、諸理念から構成された存在である」(同上)

ここで、理念と並んで真理が出てくるのは、プラトン以来西洋哲学の伝統の中で、理念と真理とが一対のものとして思念されてきたという歴史的な経緯があるためだろう。その一対の片割れである理念が認識の対象にならないとしたら、真理もまた認識とは無縁なものになるわけである。認識と無縁ということは、人間の認識とは別の所で、それ独自に自存しているということだろう。

ところで、デカルト以来、西洋の哲学の伝統においては、真理とはきわめて認識論的な概念であったのだった。人間の認識を離れて、真理は成り立たなかったのである。ところがベンヤミンは、真理は認識の対象ではなく、自存する存在だとする。つまり、真理を認識論的な存在性格から、存在論的な存在性格に取り戻したわけである。真理はそれ自体として、存在する。すなわち自存する真理というわけである。

認識論的な存在性格としての真理が、人間の認識と対象との一致をテーマにするとしたら、存在性格としての真理は、何と何の一致をテーマにするのだろうか。あるいは、そもそも一致ということを問題としないのだろうか。

ベンヤミンによれば、星座と個々の星との間の関係に真理は潜むということらしい。しかし、その関係がどんなものなのか、具体的には説明しない。ベンヤミンはここでも、比喩を持ち出すのだ。ライプニッツのモナドによる比喩である。ライプニッツのモナドは、一つ一つが世界全体を内包している。個物は全体の単なる一部ではなく、全体を含んでいる。それでいて個々のモナドは相互に関わりをもたない。これが人間社会の隠喩であることは見抜きやすいことだ。モナドを人間の意識に譬えれば、世界とは無数の人間の意識からなり、それらは相互に関わりを持たないが、それでも個々に世界全体を表象しているというわけである。

この比喩を利用してベンヤミンは、理念をモナドになぞらえる。そうすれば、理念は星座としての全体であると同時に、個々の星として、モナドのように星座全体を表象するというふうにいえる。

「理念は、総体性であると同時に、これと対照的に孤立性を絶対に手放さずにいることを特色としていて、モナド的な構造を持つ。理念はモナドなのだ・・・理念はモナドだ~ということは要するに、ひとつひとつの理念が世界の像を内包している、ということである。理念の叙述にあたって課題となることは、この世界像を、その縮約された姿において描くことにほかならない」(同上)

こういうふうに読むと、ベンヤミンの思想がいかに変っているかがよく見えてくる。彼は、理念や真理といった概念を、単なる認識論的なレベルで考えるのではなく、存在論的なレベルで考え直しているわけである。その点は、哲学のテーマを認識論から存在論へと逆転換させたハイデガーの問題意識と通じるところがある。だが、ハイデガーのようなすっきりした存在論とは違って、異教的な匂いが漂っているような感じがする。それを、人によっては、ベンヤミンのユダヤ教的な部分だと指摘する向きもあるのだが、カバラ思想を始めとしたユダヤ思想に無縁な筆者には、その辺のところは何ともわからない。


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