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ハンナ・アーレントのベンヤミン論


1940年9月下旬のある日、スペインとポルトガルを経由してアメリカへの亡命を図ったベンヤミンは、一時的に滞在していたマルセイユを出発してピレネーへと向かったが、その時マルセイユにはハンナ・アーレントも滞在していた。アーレントはベンヤミンより14歳も年下であったが、どこかで気が合っていたらしく、ベンヤミンは彼女に遺稿となった作品の一部(「歴史の概念について」)を託している。その遺稿をアーレントは、ベンヤミンの死の翌年にアメリカへ亡命した際に、ベンヤミンの指示にしたがってアドルノに渡している。彼女がベンヤミンの死の詳細について知ったのは、アメリカへ渡った後だったと思われる(死亡の事実については、ベンヤミンの死後4週間後に知らされたらしい)。

ベンヤミンの死の詳細については、彼と一緒にピレネー越えをしたある夫人がもたらしていた。ベンヤミンたちは、9月25日から26日にかけてピレネー越えを図ったのであったが、スペイン側の検問所でひっかかり、フランスに送り返すと宣告された。この検問所は、それまでの情報によれば、簡単に通過できるはずと思われていたのだが、何らかの原因で、事情が変ってしまったようだった。ともあれ、それを聞いたベンヤミンは事態を悲観した挙句、多量の睡眠剤を呑んで自死してしまったのである。

後日、その様子を聞いたアーレントは、次のように書いて、ベンヤミンの不運を悲しんでみせた。

「もう一日早かったなら、ベンヤミンは何の障害もなく国境を通過したであろう。もう一日遅かったなら、マルセイユの人々は当分の間スペインへの国境通過が不可能であることを知ったであろう。この悲劇は、その特別な日にだけ起りえたのである」(「暗い時代の人々:ヴァルター・ベンヤミン」安倍斉訳、以下同じ)

アドルノらの努力もあって、ベンヤミンの名声は死後急速に高まった。アーレントはそれを、ベンヤミンのように才能のある人間にとっては当然のことだと評価しているが、しかし、彼女にはひとつ気に入らない点があった。それは、アドルノらによって、ベンヤミンがマルクス主義者の端くれに位置付けられてしまったことである。それも、偉大なマルクス主義者としてではなく、できそこないのマルクス主義者、アドルノらフランクフルト学派主流のマルクス主義者の周縁に位置する特異なマルクス主義者に貶められたことが、彼女には気に入らなかったのであった。

「テオドール・W・アドルノとマックス・ホルクハイマーとは、『弁証法的唯物論者』であったが、かれらの意見では、ベンヤミンの思考は『非弁証法的』であり、『マルクス主義の範疇とはまったく合致しない唯物論的範疇』に移行しており、『無媒介なもの』であった・・・ベンヤミンはおそらくこれまでのところ、マルクス主義運動によって生み出された最も特異なマルクス主義者である」(同上)

しかし、彼女はこうした評価を逆手にとって、ベンヤミンの評価の基準を転換させようとする。ベンヤミンの本領はマルクス主義にあるのではない、というのである。何故なら、マルクス主義は未来を向いている、彼らのいう弁証法とは、未来に向けての運動なのだ。それに対してベンヤミンが向いているのは過去のほうだ。過去の廃墟のなかから、新しい意味を引き出す、それがベンヤミンが自分に課した課題であった、とアーレントは言うのである。

「こうした(ベンヤミンの)態度ほど『非弁証法的』なものはないだろう。ここでは『歴史の天使』は未来へ向かって弁証法的に前進するのではなく、天使の顔は『過去へ向けられた』ままである」(同上)

こうして、マルクス主義の根本概念である弁証法とか、進歩とか、未来とかいうものに代えて、まったく違う概念をベンヤミンのうちから取り出して来て、その思想を全く異なった角度から見直す。それがベンヤミンをめぐるアーレントの問題意識となった。もっとも彼女は、ベンヤミンの専門的な研究者ではなかったから、その問題意識を深めるということはしなかったのだが。

こうしたわけで、彼女のベンヤミン論は、断片的なものにとどまっているのだが、しかしなかなか示唆に富む視点を含んでいる。

まず、ベンヤミンの思考態度の特徴について、彼女はそれを詩的な思考だと言っている。

「ベンヤミンについての理解を困難にしているものは、かれが詩人となることなしに、詩的に思考していたことであり、それゆえに隠喩を言語における最大の武器とみなさざるをえなかったことである」(同上)

ここで詩的な思考といわれているものは、通常詩人たちによって展開されれば文学的な香気ある表現として結実すべきものであるが、しかしそれがベンヤミンのような思想家によって展開されると、わけがわからないものに結実する恐れがある、とアーレントはいっているようである。実際思想家が旨とすべきは、論理の明確さであり、詩的な情緒ではないのであるが、ベンヤミンの場合には、論理の明確さをかなりそこなっても、詩的な思考にこだわったというわけであろう。もしも、詩的な思考というものが形容矛盾でないとしたならば、という話だろうが。

詩的に思考するとは、論理的に思考することの対極にあるものだ。論理的な思考は体系を目指す、それに対して詩的な思考は雰囲気を大事にする。少なくとも、詩的な思考が体系を目指すことはない。

また、論理的な思考は伝統と強く結びつく、それは知の伝統の中に自らの基盤を据える。ところが詩的な思考は、伝統を打破して斬新なものを打ち立てることを目指す。それが過去の業績を扱う態度は、体系的ではなく無体系的・無秩序的である。それは過去の業績から無秩序に引用して来たり、無差別に収集してきたりする。詩的な思考家はしたがって、アトランダムな収集家でもある。

「伝統は過去を単に年代順に秩序づけるだけではなく、何よりも体系的に秩序付ける。そこで伝統は肯定的なものを否定的なものから、正統を異端から区別する・・・一方収集家の情熱は体系的でないだけではなく、無秩序と境を接している・・・伝統が様々な区別を立てるのに対し、収集家はあらゆる区別をなくして一様化するのであり~それゆえ、『肯定的なものと否定的なもの・・・偏愛と拒絶とがここでは密接に接触しあう』」(同上)

ベンヤミンの畢生の大作「パサージュ論」は、膨大な引用からなる著作であるが、それは、引用を論旨展開のための証拠として用いているのではない。引用された文章が、そのままテクストになっているのだ。つまり、引用された個々の文章は、もとの文章の分脈から離れてまったく違う文脈の中に置かれることで、それら相互の組み合わせからまったく異なった、あたらしいメッセージを発するに至る。引用された文章は、異なったテクストの間を浮遊するというわけである。こうした行為をなすのは、体系的な思想家ではなく、収集家であり散歩者である。散歩しながら気に入ったものを収集し、それらをアトランダムに組み合わせることで新しい意味の発生を楽しむ、というわけである。

「収集家は、かつてかれの対象がより巨大で生成しつつある全体のほんの部分に過ぎなかったときに、その対象が置かれていた前後関係を破壊する・・・それらの分脈から断片を引き裂き、それらが相互に例証しあうように、またいわば自由に浮動している状態においてそれらの存在理由を証明できるような仕方で配列することであった。明らかにそれは一種のシュルレアリズム的モンタージュである」(同上)

この収集家としてのあり方こそ、ベンヤミンの本質的な態度なのだ、とアーレントはいうのである。その収集家としてのベンヤミンをアーレントはまた「真珠取り」とも名づけている。

真珠採りは海の底深くにもぐって行って、貝殻のなかから真珠を採りだす。そのようにベンヤミンも、歴史の海底に沈んだ廃墟のなかから、真珠のように輝いた断片を採りだすのである。

ベンヤミン論の最後にアーレントは、真珠採りとしてのベンヤミンと彼によって採り出される真珠の関係について、次のように書いている。

「こうした思考を導くものは、たとえ生存は荒廃した時代の支配を受けるとしても、腐朽の過程は同時に結晶の過程であるとする信念、かつては生きていた者も沈み、溶け去っていく海の底深く、あるものは『海神力によって』自然の力にも犯されることなく新たな形に結晶して生き残るという信念である。こうして生き残ったものは、いつの日か海底に下りて来て生あるものの世界へと運び上げてくれる真珠採りだけを待ち望むのであり、『思想の断片』も『豊かで不思議なもの』も、そしておそらく腐朽の根源現象でさえもその中に数えられるであろう」(同上)


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