知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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高橋敏「清水次郎長」


清水次郎長といえば、日本的な侠客の典型としてなじみ深いと思う人は多いだろう。筆者の親の世代(戦中・戦前派)では、広沢虎蔵による浪花節や講談師たちによって全国の津々浦々まで語られていたし、筆者の世代では映画やテレビドラマに繰り返し取り上げられ、日本人として知らないものはないといってよかった。

その次郎長の侠客像は、天田愚庵の東海遊侠伝がもとになって作られた。愚庵は一時次郎長の養子になったこともあって、次郎長の生き方については精通しており、自分で目のあたりにした次郎長の姿を侠客の典型として描き出した。従ってそこに描かれた次郎長像は、男一匹の美学のようなものに焦点が当てられていたわけだ。その美学が、浪花節語りや講談師たちを動かして、次郎長を理想化した物語を普及させる原動力になったのだろうと思う。

高橋敏は、歴史家としての視点から、清水次郎長の生涯を描いて見せた。岩波新書に収められた「清水次郎長~幕末維新と博徒の世界」は、そのコンパクトな集大成である。愚庵の「東海侠客伝」を下敷きにしながら、幕末・維新にかけての歴史資料と関連付けながら、次郎長を男一匹の博徒としてだけでなく、幕末・維新を生きた歴史の一証人としても位置づけようとしている。したがってこの書は、次郎長を通じた幕末・維新史としての意味合いも持っている。副題に「幕末維新と博徒の世界」とある所以である。

高橋によれば、幕末は日本の歴史上多くの侠客が登場した稀有な時代であった。国定忠治や勢力富五郎は次郎長と共にその代表格であるが、他にも多くの侠客が登場して互いに競い合ったり、権力に立ち向かったりした。その背景には、幕府の権威が失墜して、日本各地に無法状況が出現していた事態があった。その無法の影に咲いた仇花、それが侠客であったというわけである。その点では、昭和の敗戦後の混乱期に全国各地にやくざが台頭したのと同じような事態だったといえよう。

次郎長の侠客ぶりについては、愚庵の東海侠客伝や虎蔵の浪花節が語っているとおりである。次郎長が日本一の大親分になったについてはいろいろな事情が働いており、それらを見る限りでは、次郎長は非常に運の強い男だったと思えるフシがあるのだが、次郎長には運のほかに実力もあった。その実力とは高橋によれば人心を掌握することで、大勢の子分たちを自分の意のままに動かす能力には他人の追随を許さぬものがあったらしい。その能力はどうやら実の父親から受け継いだようだ。父親は舟運に従事していたことが知られるが、徳川時代の舟運というのは、乗組員の固い団結に支えられていた。その固い団結を父親から学んだ次郎長が、子分どもを結束させるについて最大限有効に利用したということらしいのである。

次郎長にはまた、世の中の動きを読む特別の眼力が備わっていたようだ。彼が幕末・維新の激動期を、無法者の身でありながらうまく立ち回って権力側に叩き潰されることを逃れたのは、この眼力の賜物であったようだ。その点は、生涯最大のライバルとなった黒駒勝蔵と大きな違いがある。勝蔵は尊王攘夷の動きに共鳴して、一時は官軍の片棒を担ぐまでになったが、最後は左幕側の勢力によって殺されてしまう。本来なら維新の英雄の一人になって当然のところを、維新が成功した後になって、維新に恨みをもつ勢力に殺されたのである。

一方次郎長のほうは、どちらかというと幕府側に肩入れをしていた。だから戊辰戦争の際には官軍から目の敵にされて当然のところを、かえって官軍から頼りにされたりして、この激動をちゃっかりと乗り切っている。その影には、任侠道を通じで結びついた山岡鉄舟らとの結びつきが働いていたらしいが、いずれにしても逆境でさえもチャンスに変えてしまう次郎長の生き方には、したたかさを感じる。

その次郎長にも逆境が訪れた。維新後薩摩の芋侍あがりが静岡県令に着任するや、次郎長は逮捕された上で懲役七年の実刑を言い渡されてしまうのである。これは次郎長にとって寝耳に水だったらしい。愚庵や鉄舟がほうぼう手を回して釈放しようとしたが、なかなか成功しない。成功したのは、県令が薩摩の芋侍あがりから徳川の旧幕臣に代わって以後のことである。これには鉄舟の介入が働いていたことから、次郎長はますます鉄舟を敬愛するようになった。だから鉄舟が明治二十一年に五十三歳で死んだときには、七十近い老身でありながら、昔の子分を集めて一同股旅姿の異形となって、谷中の全生庵で営まれた葬儀に駆けつけたという。

幕末に輩出した多くの侠客のうちで、維新の後まで生き延びて、しかも畳の上で往生したものは、次郎長をおいて他にはない、ということらしい。しかも次郎長は、死んだ後も偶像に祭り上げられ、浪花節や講談を通じて、そのいなせな生き方が全国津々浦々まで紹介されるという光栄にも浴した。実に運のいい男だといえよう。




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