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モラル・ハザードのモデルとしてのS&L問題:クルーグマン教授の経済入門


2008年のリーマンショックが、市場原理主義といわれるものの産物であったことは、今や広く認められている。市場原理主義とは、市場の持つ調整力を盲信して、政府による規制を最大限なくそうというものだ。そうすれば、経済は自然とうまくゆく。そう考えるわけだ。

ところが、市場というものは、市場原理主義者たちが考えているように、放っておけばうまく作用するというものではない。逆に暴走して手に負えなくなる。というのも、市場のゲームに参加している人々は誰でも、他人の犠牲で自分だけがうまく儲かろうとしているので、ゲームを律する外在的なルールがないと、とんでもないことになる傾向があるからだ。

行き過ぎた規制緩和は、レーガン大統領の時代に本格化した。レーガンのやった政策は、減税と規制緩和につきるといえるが、その結果アメリカは深刻な財政危機を抱えるようになり、また金融部門の暴走を助長するようになった。金融部門の暴走がリーマンショックの直接の引き金になったことはいうまでもない。

クルーグマン教授は、金融部門の暴走の比較的早い時期の見本として、セービングス・アンド・ローン(S&L)問題を取り上げている。S&Lとは、アメリカ版住専として日本人には知られているが、要するに一般市民を対象にした小口の融資機関で、政府によるガチガチの規制をかける代わりに、リスクに対しては、政府保証を付けましょうというものだった。

S&Lは70年代のものすごいインフレのおかげで、レーガンが登場した80年にはおしなべて深刻な状態に陥っていた。高い金利を設定しなければ金が調達できないのに、すでに貸し出し済みの債権には、インフレ以前の低い利率が固定されており、収支がマイナスになるケースが多かったからだ。

だからこの時点で、抜本的な対策を打っておくべきだったのだ、というのがクルーグマン教授の意見だ。S&Lへの規制を強化して、オーナーたちにもっと資本を注入しろと言えばよい、それができなければつぶして、預金は政府が間に入って払い戻してやればよい。

ところがレーガン政権は、全く逆のことをやった。規制を取っ払って、S&Lといえども、他の金融機関同様、好き放題なことができるようにしてやったのだ。その結果何が起きたか。モラル・ハザードだ。

S&Lの場合には、一方で規制を緩和しておきながら、他方では政府保証をそのままにしていた。このことで、S&Lの経営者は、「預金者の金でギャンブルができるようになって、そのリスクは連邦政府が吸収してくれる」事態となった。

こうして80年代を通じて、S&Lの赤字はどんどん膨らみ、89年には、目玉が飛び出るほど巨額になっていた。その損失は結局納税者の負担で穴埋めされたわけだ。

S&Lの場合には、モラル・ハザードの典型的なモデルとしての側面が強調されがちだが、その破たんの最大の要因は、必要な規制をかける代わりに、規制を取っ払って、やりたい放題をさせたことにある。その意味では、リーマンショックにおける金融危機のメカニズムと共通する要因があるわけだ。だからある意味、S&L問題は、リーマンショックを予想させるものでもあったはずだ。それなのに、同じようなことを、しかも何倍も規模を大きくして、発生させた。こんな能のないことはない、とクルーグマン教授はいいたいようなのだ。

モラル・ハザードという観点から、クルーグマン教授はもう一つの例として、ロイズの破たんをあげている。ロイズとは、イギリスに本拠を置く、再保険を扱う組織だ。長い間、世界の再保険市場をほぼ独占してきたが、その組織運営は極めて独特なスタイルを取っていた。

再保険を請け負う組織体をシンジケートというが、それはロイズの中で実績を積んだ信用のある人間でしか加入できなかった。シンジケートの会員になることは、一方では巨額のリスクを負うことを意味する、普通の株式会社の株主が自分の保有する株式の範囲でしか責任を負わないのに対して、シンジケートの会員は、無限の賠償責任を負わされる、それこそ尻の毛まで抜かれてしまうわけである。そのかわり、なにごとも起きなければ、報酬は巨額になる。そしてほとんどの場合、事故というものは滅多に起きないものなのだ。

再保険の市場にも、新しい風が吹いてきて、ロイズにも競争者があらわれる一方、ロイズ自体の内部もまた変化してきた。これまでは、シンジケートの会員(顔という)にはごく一部のものしかなれず、しかも会員(顔)とシンジケートの運営実務を任された管理人とが一体となっていた。誰もが共通の利害の上に立っていたわけである。

ところが、再保険市場の拡大に伴い、シンジケートには外部からの資本(これを外顔という)が大量に流れ込んでくる一方、顔と運営管理人とが、今までのように一体的ではなくなってきた。いままでなら、運営管理人の利害は顔の利害と一致していたのが、必ずしもそうではなくなってきたのだ。

運営管理人は複数の顔から業務を委託して、その委託料で食うようになってきた。だからなるべく仕事を増やすように、すこしくらいやばい案件でも、割合低い保険料で受けたりするようになる。その結果損失が生じても、そのツケは自分ではなく顔が払ってくれる。つまり、モラル・ハザードが生じるわけだ。その結果どうなるかはミエミエだ。

S&Lの場合には政府による保証がモラル・ハザードの淵源になっていた。ロイズの場合には、そんなものはない。あるものは、ロイズ自身が培ってきた信用力だ。運営管理人はこの信用力と顔の財力を悪用することで、S&Lの場合と同じような結果をロイズにもたらしたわけである。

この事態を評して、クルーグマン教授はいう。「まちがった政府規制だって市場を駄目にするけど、政府規制なしでも市場は勝手にイカれてくれるわけ」(山形浩生訳)




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