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クルーグマン教授の経済入門


「クルーグマン教授の経済入門(日経ビジネス文庫版)」を読んだ。ポール・クルーグマンが一般読者向けに書いた初めての入門書を、山形浩生という一風変わった人が日本語に訳したものだ。一風変わっているというのは、訳し方が尋常ではなく、ふざけ半分のような印象を与えるからだ(橋本治氏の桃尻語の影響を受けているらしい) しかしけっこう読みやすく訳せている。

この山形という人は、ネット上にケインズの一般理論の翻訳も公開していて、それを読んでもなかなかわかりやすいという印象を受ける。少なくとも、岩波文庫版をはじめとした学者先生による翻訳よりわかりやすい。(ちなみに山形氏は、野村総研の経済アナリストだそうだ)

経済入門といっても、大学の教科書のようなものとはかなり違う。経済学のエッセンスをもれなく、しかもわかりやすく説明するというより、今日の世界で生じている経済事象について、大まかに分析できるような視点を提供しているといった具合だ。それゆえ、経済学入門とせずに、経済入門としたわけだろう。

クルーグマンについては、筆者はニューヨーク・タイムズの彼のコラムのファンで、ずっと読んできた。その場では、共和党時代から政府の政策を批判し続け、現在のオバマ政権になってからは、政権と一定の距離をとりながら、ケインズ流の有効需要を重視する論調を展開していた。そこで、基本的にはケインズ主義者だと思っていたのだが、実際にはそう簡単でもないらしいと感じるようになり、その思想の概要について、改めて知りたいと思うようになったわけである。

この本を読んでみて、クルーグマンが新古典派だの、ケインズ派だのと、つまらぬ党派性にこだわらぬ人だということがよくわかった。どっちかというと、新古典派の方をよりバカにしているようで、「くたばりそこないのサプライサイド屋」が害毒をまき散らしているとの趣旨の言い方をしているが、かといってケインズを無条件に持ち上げるわけでもない。党派性にこだわらずに、虚心坦懐に経済事象に取り組もうとする立場のようだ。

クルーグマンは、経済にとって大事なことは三つしかないといっている。生産性、所得分配、失業である。それ以外のこと、たとえば国際収支がどうだとか、財政赤字がどうだとか、為替レートがどうだとかは、付随的な問題に過ぎない。最も肝要なことは、以上三つの根本問題について、正しい理解を持つことだ、そう断言する。

生産性は、長期的にはすべてだといってもよい。ある国が長期的に見て生活水準をどれだけ上げられるかを決めるのは、この生産性の上昇なのだ。ところでアメリカ経済に目を向けると、20世紀の最初の70年間で、労働者一人当たりの生産性は平均2.3パーセントの延びであり、50-60年代ではそれが2.8パーセントにまで高まった。ところが70年代以降今までに、生産性は年平均1パーセントしか上昇していない。つまり最近20数年間のアメリカ経済は、成長が限りなく低くなってしまったわけだ。

何故そうなったのか、納得のいく説明ができる者はいない。サプライサイドの連中は、それは政府の規制が行き過ぎた結果だとか、構造改革が足りないからだとかいっていたが、連中がレーガン政権下でとった経済政策の結果は、かえって事態を悪化させる体のものだった。じゃあ、本当はどうすればよかったのか、実を言うと、クルーグマンさんにもわからないというのだ。

所得の分配は社会の公正にかかわる問題だ。公正とは政治的な理念のように聞こえるが、経済にとっても重要な概念だというわけである。そこが社会的な公正よりも儲けることの私的な自由を優先する新自由主義者たちと異なるところだ。

70年代以降、アメリカの階層間格差は広がった。厳密に言うと、メヂアンとよばれる中間層の所得は殆ど横ばいなのに対して、上位の金持層は加速的に収入を増やす一方、下位の貧乏人層は一層貧乏になった。その結果90年代半ばには、アメリカは「華麗なるギャツビー」に描かれたような、不平等な格差社会になってしまった。

格差のどこが悪い、と居直る連中もいるが、この格差は良く見ると、経済成長が全体として下がったり上がったりしたことの結果ではなく、所得の分配が金持ち層に有利なようになされたことの結果だった。つまり自然にそうなったわけではなく、意図的に格差を拡大させるように、所得の配分がなされてきたというわけだ。

失業は、現実の経済政策運営のうえでもっとも気を使う問題だ。失業があるということは、社会の資源が無駄になっていることの証しであるし、失業者を養うために、政府は巨額の財政支出をしなければならない。社会にとっては二重の意味でマイナスであるばかりか、生産性を低くする最大の要因でもある。

ではどうしたらよいか。失業をなくすためには雇用を増やさねばならない、当然のことだ。ところがそこに厄介な問題が潜んでいる、とクルーグマンはいう。失業を減らそうとするとインフレ圧力がかかるのだ。つまり、失業が減って、完全雇用の状態に近づけば近づくほど、需要が過熱してインフレが起きてしまうのは、避けられない二律背反というわけなのだ。

この二律背反を、マネタリストのミルトン・フリードマンが取り上げて、インフレ率を一定以下にしておくためには、いつも一定の失業率が必要だと、逆説的な言い方をした。そしてそれは多くの経済学者によって受け入れられたのである。

この必要な水準の失業率をフリードマンは「自然失業率」と呼んだが、それではあまりにもひどい言い方だというので、いまではこれを「インフレ無加速失業率(NAIRU=Non-Accelerating Inflation Rate Unemployment )」と呼んでいる。

「インフレが加速するのを避けたいなら、政府は一定以上の失業率を保って、労働者が自分の生産性を上回る実質賃上げ要求をしないようにしなきゃなんない。同じく、企業がコスト上昇以上に値上げしないように失業を保たなきゃなんない。そして、インフレを抑えられる最低の失業率が、NAIRUだというわけ」

クルーグマン自身も、ミルトン・フリードマンの打ち上げたこの考え方に、異論を唱える気はないらしい。(もっとも彼は、労働者の失業率を低くするために、一定のインフレは社会的なコストとして認めるべきだ、というスタンスのようだ)



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