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大いなる閉じ込め:フーコー「狂気の歴史」


フーコーの言う「古典主義時代」とは、彼自身の時代区分によれば、17世紀の半ばから18世紀末までのほぼ150年間をカバーする。時代の開始を告げるメルクマールとしてフーコーは、1656年に、パリにおける「一般施療院」の設立が布告されたことをあげる。この布告によって、狂人を含む反社会的と断罪された人々の大いなる閉じ込め=監禁の時代が始まる。イギリスでは、反社会的分子の閉じ込めは、もう少し早く始まったが、それが本格化するのは、やはり17世紀の半ばだとフーコーは考えている。

一方、古典主義時代の終わりのメルクマールとしてフーコーがあげるのは、精神医学史に名を残した精神科医ピネルが、1792年に、ビセートルの施療院から狂人を解放したことである。施療院から開放されたのは狂人だけではない。そのほかあらゆるジャンルの被監禁者たちが解放された。それら狂人以外の被監禁者たちはそれ以前から解放、というより施療院からの追い出しを食っていたのだったが、ピネルによる開放は、大いなる閉じ込めにとって最終的な死亡宣告となるものだったのである。

この約150年の間、ヨーロッパでは大いなる閉じ込め=監禁の時代が続くのだが、それはどのような光景を呈していたのだろうか。

まず、どのような人々が監禁されたのか。施療院という言葉からは、病気や怪我をした人々を対象にした医療行為が連想されるが、ここではそうした医療行為は行われなかったし、また形式上の目的にも掲げられていなかった。「一般施療院」の形式上の目的としてフーコーは、この制度を定めた1656年4月27日の勅令に言及しているが、それには、この制度は、「あらゆる秩序破壊の根源としての乞食と怠惰」を阻止することを目的としていた。つまり、乞食や怠け者に代表されるような怠惰な連中を閉じ込めることを目的としていたのであって、狂人たちは、怠惰な人間という資格において閉じ込められたのであった。それに、「一般法による受刑者、家庭の平安をみだし乱費する子弟、放浪・無頼の徒」などが一緒くたにされて放り込まれたのである。こうした事情をフーコーは次のように述べている。

「もともと最初から,一つの事柄だけは明白である。つまり、<一般施療院>は、医療施設ではないのである。むしろそれは、裁判所とは別個に、しかも既存の権力機構とならんで、決定し、裁定し、施行するところの、なかば司法的な組織、行政上の本体である・・・それは秩序、当時フランスにおいて組織化されつつあった君主制的でブルジョワ的な秩序の権力機構の一つである」(「狂気の歴史」題一部第二章、田村俶訳)

このようにフーコーは「一般施療院」を、権力が秩序に反すると認定した連中を、強制的に社会から排除し監禁するための施設であり、その内部では、治療行為ではなく、処罰と悔恨の強要が行われていた、とする。こうした空間の内部で、狂人たちは他の反社会的分子と一緒くたにされ、閉じ込められていたわけである。もっとも彼らにも、普通の人々の目に触れる機会がないわけではなかった。しかしそれは、普通の人々の好奇心を満足させるための見世物としてさらされたのであった。そうした場を通じて狂人たちは、善良な人々への教訓と反省の材料を提供したわけである。

では、権力はなぜ、狂人を含むこうした広範囲な半秩序的人間、それは怠惰な人間という本質規定をされたわけだが、そうした人間たちを「施療院」という名の監禁施設に閉じ込めたのであろうか。それは、この時代に生じた社会変動を考慮に入れないと理解できない。啓蒙の世紀とも言われるこの時代は、ブルジョワジーが権力の一翼を担うまでに成長した時代であった。そのブルジョワジーのメンタリティを物語るのが彼らの労働観である。ブルジョワジー層は、それ以前の権力層、王権派や貴族層とは違って、一応労働というものを自分たちの存立の根拠としていた。それゆえにこそ、彼らの労働についてのメンタリティは、プロテスタントの倫理の根本ともなったのである。いまや、労働こそが人間としての存在の根拠となる。それゆえ、労働を忌避したり、さまざまな事情で労働の能力を有しないものは、人間としての存立根拠を失ったも同然なのである。そういう連中は、社会の中に居場所を持つべきではない。彼らは社会から排除されるべきである。せめて、社会の目に触れないところに、閉じ込められるべきである。

こういうメンタリティがこの時代を支配するようになって、そこから想像を絶する大規模な閉じ込め=監禁が行われたのだとフーコーは解釈する。実際、こうして、たとえば17世紀末頃のパリの人口のうち、一パーセントの割合の人々(6000人)が、「一般施療院」に監禁された。それだけの人々が、労働を忌避したりその能力のないろくでなし=怠惰な人間という烙印を押されたわけであろう。怠惰の追放が時代の精神となった事情をフーコーは次のように述べている。

「中世では、大きい罪、あらゆる悪の根本は、尊大傲慢だったし、文芸復興の黎明期には、ホイジンガを信じるならば、最高の罪は貪欲という姿、ダンテのいう盲目の貪欲だった。ところが反対に、17世紀のあらゆるテクストでは、安逸怠惰がすさまじい勝利を収めることになる。今や、安逸怠惰こそが諸悪の輪舞をみちびき、それらをひきずりまわすのだ」(同上)

フーコーのこの言葉を前提にすれば、狂気は、中世では尊大傲慢とはいえない限り排除の対象となることなく、文芸復興の黎明期では貪欲と無縁である限り排除の対象とならなかった。ところが古典主義の時代の到来とともに、狂気の人=狂人は労働のできない存在として、安逸怠惰の烙印を押され、大勢のろくでなしどもと一緒くたにされて、「監禁のとりでのなかに」閉じ込められてしまったわけである。

こういうわけで、「18世紀末になっても、我々が狂気を見出す場所は、施療院のなかになるだろう。狂気に対する新しい感受性が生まれたのである。もはや宗教的ではなく、社会的な感受性が。狂人が中世の人間的な景色のなかに親しみ深い姿で現れたのは、狂人が別の世界からやって来たからだった。今や、狂人は、都市における人間個人の秩序に関する、<治安問題>を背景にして、鮮明な姿を見せようとする。昔は、別世界からやって来たから、狂人はもてなされたが、今後閉じ込められるだろう」(同上)

実際、17世紀なかばから18世紀の末までの約150年間、狂人は閉じ込められ続ける。その間、狂人は医療の対象としてではなく、治安維持の対象として、医学的にではなく、行政的に取り扱われるのである。だが、18世紀の末になって突然、狂人を含めた被監禁者たちはいっせいに解放された、というか追い出された。何がかれらを監禁施設から追い出させたのだろうか。

これもやはり労働についてのメンタリティが変化したことに根本の理由がある、とフーコーは考えている。ブルジョワ社会の発展に伴って、労働をめぐる需給が逼迫してきた。多少労働の能力が劣るからといって、彼らを監禁施設に閉じ込め、安逸怠惰な暮らしをさせておく余裕はない。少しでも働けるものは、それなりの能力に応じて働くべきなのだ。だから、彼らを一律に閉じ込めてきた「一般施療院」は、一旦封鎖される必要がある。

こうして、「施療院」に閉じ込められていた人間たちが、18世紀の末に、いっせいに社会へと送り返された。そうすると、本質的に社会が受容できないタイプの人間が浮かび上がってくる。犯罪者と狂人だ。犯罪者は、社会で野放しにしておくわけにはいかない。狂人のほうは、彼ら自身が社会に適応できないわけだから、社会の中には彼らの居場所はないということになる。そういうわけで、19世紀になると、犯罪者と狂人とには、それぞれに適合した施設が用意されるようになる。犯罪者のためには監獄、狂人のためには精神病院である。そして、精神病院が狂人専用の独立した施設として登場してきたことによって、ヨーロッパの歴史上初めて、精神医学というものが登場してくる。そうフーコーは考えるのである。


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