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フーコー「精神疾患と心理学」を読む


フーコーは臨床心理学者としてキャリアをスタートした。専門領域は精神疾患であった。人はいかにして精神の病に陥るか、どうしからそこから解放されて正常な状態に戻れるか、それが心理学者としてのフーコーの問題領域を形成していた。フーコーが精神疾患にかかわるようになったについては、彼自身の個人的な事情も作用していた。彼は少年時代から自分の同性愛的な傾向に悩んでおり、自分は正常な人間ではないのではないのかと苦しみ続けてきた。心理学の研究は、そんな彼にとって、自分自身の悩みに対して解決の糸口を示してくれるのではないか、そんなふうに思われたのかもしれない。

1954年の著作「精神疾患と人格」は、フーコーの青年期の臨床心理学者としての実践を踏まえて書かれたものである。だがフーコーはすぐに、この著作を取り消してしまった。理由は、若気の至りでつまらぬことを書いてしまった、ということになっているが、フーコーの内部で、思想的な転回があったのだと推測される。その後、「狂気の歴史」を書いて、狂気についてのフーコーなりの考えを体系的に展開した後、「精神疾患と人格」を大幅に書き換え、「精神疾患と心理学」と題して刊行した。

筆者は、オリジナルの「精神疾患と人格」のほうは未見なので、オリジナル版と書き直し版とがどのような関係になっているのか、自分の目で確かめることができないのが残念だが、ここでは中山元を参照して整理しておきたい(中山「フーコー入門」)。

中山によれば、オリジナル版は二部構成でできており、第一部では精神疾患と身体疾患との相違が強調され、第二部では精神疾患からの解放が、ビンスワンガーらの現象学的精神病理学とマルクスの疎外論に依拠しながら述べられているということらしい。

フーコーが精神疾患の独自性をことさらに強調したのは、当時の精神医学会の傾向に対するフーコーなりの批判意識のあらわれということだ。当時の精神医学の主流は、精神の病と身体の病とは、基本的に別々のものではなく、同じ原理で説明できるものと考えていた。身体としての脳の動きと精神の動きの間には平行性が認められるとする立場である。これに対してフーコーは、それは違うと言ったわけだ。その影には、たとえばロボトミーのような、身体の部分に働きかけることで精神の病が改善されるとする当時の医学的な常識に対するフーコーの深い嫌悪感が作用していた。ロボトミーによって、患者の多動的な困った傾向は解消されるかもしれないが、患者の人間性は毀損されてしまう。そんなものは治療でも何でもなく、暴力の一種だ、というふうにフーコーは受け取ったわけであろう。

精神疾患=狂気からの解放ということについては、フーコーはそれを、狂気をもたらす原因に応じて、ふたつの条件をあげている、と中山は言う。ひとつは、「心理的な葛藤の原因となる社会的及び歴史的な条件」、もうひとつは、「この葛藤が病理的な反応に転換される心理的な条件」である。この二つの条件のうち、前者がマルクスの疎外論、後者がビンスワンガーらの現象学的精神病理学と深く関わっているわけである。

これに対して書き直し版は、第一部についてかなりな手直しをする一方、第二部は全面的に書き直したということである。

以上を念頭に置きながら、書き直し版である「精神疾患と心理学」を読んでみたいと思う。

まず、オリジナル版との共通性が高いと思われる第一部から。ここでも、精神疾患と身体の疾患との違いが強調される。

「われわれが示したいのは・・・精神病理学というものは、身体病理とは異なった分析法を必要とするものであること、及び、『身体の病』と『精神の病』に同じ意味を与えうるというのは、単なる言葉の技巧にすぎない、ということである」(「精神疾患と心理学」第一章、神谷美恵子訳)

これは、オリジナル版での主張とほぼ同じ主張なのだと思われる。フーコーは改めてこう確認することで、精神疾患=狂気にそれ独自の問題領域を付与し、その領域の中での病の本質規定とそこからの解放について述べようとするわけである。だが、オリジナル版では、その解放の処方箋がマルクスの疎外論やビンスワンガーの現象学的人間学に依拠して展開されていたらしいのに対して、書き直し版では、解放の方向性がそんなに単純な道筋を示すものにはなっていない。少なくともマルクスの疎外論への言及は見られず、またビンスワンガー流の人間的なアプローチも後退している。それにかわって前面に出ているのが、精神疾患の歴史的・社会的な被規定性の強調である。

つまりフーコーは、オリジナル版の第二部にあたる部分を、「狂気の歴史」で展開した議論をもとにして、全面的に書き換えたわけである。その叙述は「狂気の歴史」をほぼ踏まえている。今日我々が言う意味での狂気の概念の成立は古典主義時代に始まったこと、それは正常に対立する異常として、社会から排除され監禁されるべきものとされたこと、この狂人の監禁は古典主義時代に続く近代の実践の中でも引きつがれ、その新たな監禁のなかから狂人についての医学的まなざしが生まれてきたこと、我々の時代の精神医学は、このまなざしの先から生まれたのであること、等々である。

こんなわけで、書き直し版である「精神疾患と心理学」は、「狂気の歴史」の要約版としてしての面を持っている。その要約を、フーコーの言葉を用いて簡略に表現すれば、つぎのようになるだろう。

「『精神疾患』とよばれているものは、たんに疎外された狂気に過ぎない。ほかならぬ狂気が可能ならしめた心理学の中に、狂気が疎外されているわけである。将来、総体的構造としての狂気の研究を、試みるべきであろう。――つまり、解放され、疎外から解かれ、いわばその根源的言語に復元された狂気の研究。」(同上、第六章)

この文章の前半でフーコーが言っているのは、精神疾患とは純粋な意味での医学的な現象ではなく、ある種の社会的な現象だということである。それは社会的に正常と認められた閾値からの逸脱として捉えられるが、その逸脱がまずは狂気として認識され、社会から排除される。その排除をフーコーは、ここでは疎外といっているわけで、これはマルクスの疎外とは違った概念である。マルクスの疎外は、人間が人間的本質から疎外された状態をさしているが、フーコーの疎外は単に社会からの排除を意味するに過ぎない。こうした認識があるからこそ、文章の後段で、疎外から解放された狂気にこそ狂気の根源的で相対的な構造があらわれると言うわけであろう。

この狂気をフーコーは、根源的言語に復元された狂気ともいうが、その狂気と今日の心理学とのかかわりを次のように述べて、著作全体の結論としている。

「心理学が狂気を支配することは決してできないだろう、と考えるだけの十分な理由がある。というのは、われわれの世界では、狂気がひとたび支配され、すでにドラマから排除された上で初めて、心理学が可能となったからである。そしてネルヴァルやアルトー、ニーチェやルーセルの場合のように、狂気がいなづまや叫び声によって、再び姿をあらわすときには、かの悲劇的な分裂と、かの自由に根ざすものだからである。現代人がこの分裂と自由に対する重い忘却を意識せずにいられるのは、ひとえに『心理学者たち』の存在が、それを承認しているからにほかならない」(同上、結論)

今日の心理学が対象としているのは、飼いならされた狂気に過ぎない、それは狂気のうちのほんのうわすべりな面しかカバーしていない。だから、ニーチェのような本物の狂人の口をとおして狂気がその全体像の一端をあらわすと、心理学はなすすべもなくたじろいでしまう、というわけなのであろう。


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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2016
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