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世界という散文:中世・ルネサンスのエピステーメー


フーコーは、西欧文明圏におけるエピステーメーの変転の歴史を、中世・ルネサンス、古典主義時代、近代という三つの時代に対応させて論じた。中世・ルネサンスより前にはギリシャ・ローマの世界があり、そこにはそれなりのエピステーメーがあったはずだが、フーコーはとりあえずそれについては問題にしない。フーコーの当面の問題関心は、古典主義時代から近代にかけての時代なので、それに近接する時代を取り上げれば足りると考えたのだろう。また、西欧文明圏以外の世界におけるエピステーメーについても考慮しない。フーコーにとっては、エピステーメーは同じ文明圏内でも時代が異なれば共通のものはなく、それぞれが断絶している一方、同じ時代でも文明圏が異なれば共通するところはないのである。

こんなわけでフーコーが最初に取り上げるのは、中世・ルネサンスの時代のエピステーメーである。「言葉と物」の、第一章「侍女たち」に続く第二章の「世界という散文」が、この中世・ルネサンスのエピステーメーについての論述に当てられているわけだが、この章でフーコーはいきなり、「十六世紀末までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を果たしていた」(「言葉と物」第二章、渡辺・佐々木訳)と宣言し、このキー概念としての類似についての、こまごまとした説明を始めるのである。読者は、すでに冒頭の章でエピステーメーとは必ずしも結びつきがあるとはいえないベラスケスの絵の解説を長々と聞かされた後なので、第二章冒頭のこのぶっきらぼうな言葉にもなかばあきれてしまうのだが、そこは忍耐を以て付き合わねばなるまい。

「類似が知を構成する」とはどういうことか。しかも「知を構成する原理が類似だけ」とはどういうことか。フーコーのこの章における問題関心は、この二点に集中する。人間というものは、ある二つの事象を前にした場合、それらの間に何らかの比較のきっかけを求めたがるものである。比較を絶した事象の間にはなんらのかかわりをも見出せない。そのような対象は、相互にかかわりを持たないという理由で、人間の関心からこぼれていくものである。かかわりのないものについて、あれこれ思弁をめぐらしても無意味だからである。ところが、この二つの間に何らかの類似があれば、比較が成り立つ。比較が成り立つものについては、人間の思弁は果てもなく羽ばたいていくものである。

というわけで、中世・ルネサンス時代の人々は、類似を比較の原理として、そこから世界の認識を展開して行った。類似によってものごとを比較し、それにもとづいて分類したり解釈したりすることは、現代人の我々も行っている。中世・ルネサンス時代の人々が我々現代人と違うのは、この類似に基づく比較を唯一の原理としていたという点だ。彼らにとっては、世界は類似するものの相互関係から織り成されていたのである。

類似にはさまざまな様相がある。フーコーは類似の主要な形象として四つ挙げている。適合(コンヴェニエンティア)、競合(アエムラティオ)、類比(アナロジー)、共感である。

適合は近接による類似である。互いに接しあうものは類似している。なぜなら似たもの同士はひきつけあい、接しあうからである。かくて霊魂は肉体と、植物は獣と、陸地は海と、人間はそれをとりまくあらゆるものと通じ合う。こうして世界のあらゆる存在は、互いの類似性に基づいて結びつきあい、その結びつきが無限の連鎖を作る。ラヴジョイがいうところの「存在の連鎖」に近いものだが、ラヴジョイの存在の連鎖には神の手が介在しているのに対して、フーコーの類似の連鎖には、とりあえずそのようなことはない。

競合は離れているものの間にある類似である。たとえば空と顔。この二つは互いに隔たっているが、類似するところがある。顔に二つの目がついているように、空には太陽と月という二つの目のようなものがついているからだ。

類比(アナロジー)は、適合や競合よりも応用範囲が広い。適合や競合が場所の近接や形態の類似と言ったように空間と関わっているのに対して、類比は空間には制約されない。フーコーは、類比が成り立つのは、二つの事象の間に、可視的な相似ではなく、関係同士の相似があれば足りると言っているが、要するに二つの事象に共通した属性が見出されれば類似が成り立つのである。つまり、属性の共通性をもとにして、そこに比喩が働き、この比喩が二つの事象を固く結び合わせるのである。

共感にいたっては、あらゆる事象の間に類似を成立させる原理になる。すべての事象は共感によってひきつけあい、結びつき、共感の反対である反感によって反発しあう。この関係は四大元素の間に典型的に見られる。火はあつく乾いているので、空気とはあついと言う点で結びつき、地とは乾いていると言う点で結びつく。一方、水は冷たく湿っているので火とは反発しあう、と言った具合で、世の中を構成する元素について、共感と反感の組み合わせを用いて説明できるわけである。

共感は、人間的なものを世界の説明原理として転用したものだが、それ以外の類似の形象も多かれ少なかれ擬人的なニュアンスを帯びている。そのことから中世・ルネサンスのエピステーメーは、ある意味で、人間的な解釈の原理でもあったと言えるわけである。

類似は比喩の根拠となるものだから、類似によって知を構成するということは、世界を比喩的に解釈するということを意味する。とりわけ隠喩を通じて世界を解釈する。隠喩というのは、二つの事象を、共通する属性をもとに直接結びつけるものである。たとえば、シェイクスピアの詩にある「君は夏の一日のように穏やかだ」という句は、「君は夏の一日だ」と言い換えられる。このように共通する属性、この場合には穏やかさ、によって事象を結びつける思考法を隠喩的思考と言ってもよいだろう。中世・ルネサンスの時代は、こうした隠喩的志向が普遍的だった、とフーコーは考えているわけである。

隠喩によって二つの事象を結びつけるという思考法は、どんな事象の間の結びつきも、必ず具体的な要素を介在させているという前提に固着する。物事の結びつきには、それ相当の理由があるのであり、そこにはかならず必然性がある。物事が偶然に結びつくということはない。つまり物事同士の結びつきは、恣意的ではありえない、と考えるわけである。こう考えると、言葉とそれが意味する事象との間にも、何らかの具体的な結びつきがあると言うことになる。言葉と物の間には、恣意的ではない、必然的な結びつきがあるに違いない、と考えるわけである。

これは、シニフィアンとしての言葉と、それが指し示すシニフィエとしての事象との関係を恣意的な結びつきと見る今日の言語学の見方とは根本的に違っている。今日の言語学は、花という具体的な存在物と、それを意味する「はな」という言葉との間には、なんらの必然的な関係はないと考えるのに対して、隠喩的な思考においては、「はな」と言う言葉には、具体的な「花」のイメージが必然的に結びついていると考えるのである。言葉自体に呪力がこもっているという信仰は、こうした考え方から出てくるわけである。

こうした隠喩的思考にもとづく世界解釈の一例として、フーコーはアルドロヴァルディの著作をあげている。アルドロヴァルディの特徴は、どんなことがらを対象にするときも、それと少しでも類似するものがあれば、それらを漏れなく記述するという点であった。類似の整合性については、ほとんど問題にしない。とにかく、多少の類似でも認めることができれば、それらは当該のテーマに関連する事柄として漏れなく取り上げられるのである。かくして、怪物をめぐる議論においては、怪物の形態学的な特徴はもとより、その民俗誌的な広がりとか、空想上の議論にいたるまでありとあらゆる事柄が、それこそごった煮の鍋のように一緒くたにされて取り上げられるわけである。フーコーは、そうした議論を、序文で言及したシナの分類法に似たものとして受け止めたに違いない。

こうした議論は、何もフーコーの言う中世・ルネサンス時代のエピステーメーに限られたわけではない。たとえば日本の優れた民俗学者である南方熊楠の議論のやり方などは、それに類したものと言える。熊楠は、たとえば十二支の個々の動物について論じるときにも、当該のテーマと少しでも関連があると思われるものは、漏れなく取り上げようとする姿勢を貫いている。そのため、犬について議論するときは、犬の動物学的な特徴の議論から、犬をめぐる御伽噺まで、広い領域をカバーした議論となる。これを近代的な意味における科学のあり方を基準にすれば、野蛮な方法と言われるのであろうが、これはこれなりに捨てがたいところがある。実際、熊楠の議論は、荒唐無稽だと言われながらも、いまだに多くの人々をひきつけているのである。

ところで、中世・ルネサンスの時代といえば、キリスト教が支配した時代である。宗教的な世界観が人々を捉えていた。だから、キリスト教を抜かしてこの時代を論じることはできないという見方もあるわけだが、フーコーは、この研究の中で、キリスト教を取り上げてはいない。キリスト教的な世界観は、人間の意識的な信仰の領域に属する事柄だから、人間の思考を無意識に制約することを本質とするエピステーメーとは、次元が異なるからだ、とフーコーは考えて、あえてキリスト教に言及するのを避けたのだと思われる。フーコーによれば、エピステーメーとは、宗教意識のさらに根底にあるものなのだ。




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