知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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人間の終焉


フーコーは、「言葉と物」の末尾を人間の消滅に関する予言の言葉で結んでいる。「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ・・・賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと」(「言葉と物」第10章末尾、渡辺・佐々木訳)

ここでフーコーが「日付の新しさ」と言っているのは、人間という概念が近代のエピステーメーの成立と同時に現れたのであり、それはたかだか19世紀の始めに遡るものでしかない最近の出来事だったということである。

そこで、近代のエピステーメーとともに現れたこの人間というものがどのようなもので、その消滅が間近いとはどのような意味なのか、が問題となる。

人間という概念の内包について、フーコーは主題的には論じていない。ただ遠まわしに言及しているだけである。たとえば労働概念との関連において。労働という概念は、近代的なエピステーメーにおいて、人間の経済活動を論じる場合の鍵となる概念であるが、労働は人間の活動の重要な要素の一つであるから、人間についての理解と絡めて論じられることになる。古典主義時代における経済論議が富の分析についてのものであり、それが必ずしも人間という概念を必要としなかったのに対して、労働は人間ぬきでは語れないのである。

言語(言語学における)や生命(生物学における)は労働ほど人間とのかかわりが明らかではないが、それでも人間を前提にしないでは語れないところがある。言語は人間同士の間のコミュニケーションを主題にしたものであるし、生命は人間のもっとも内奥の本質に関わるものだからだ。これに対して、古典主義時代のエピステーメーにおける一般文法は人間のコミュニケーションを論じるというよりは、世界を分節化するものとして論じられたのであったし、博物学は人間が不在でも成り立つ学問であった。

上記の三つ(言語学、生物学、経済学)以外の学問で人間諸科学というべき学問は、いっそう強い程度で人間との関連を強調している。そのもっとも重要なものは、精神分析学と文化人類学であるとフーコーは言う。両者ともに、ずばり人間を対象としている。精神分析は、人間の心を、文化人類学は人間の文化を、それぞれ対象としているからである。

「精神分析と文化人類学は、今日のわれわれの知の中で特権的位置をしめている」(同上)とフーコーは言う。なぜなら、この二つの学問は、人間についての認識を一段と進化させたからだ。精神分析学は、人間を意識と無意識とが統合された複雑なシステムとして捉える。文化人類学は、人間の行動を外部から規制している体系・規則・規範といったものの存在を明らかにすることで、人間を社会的(共同存在的)な生き物として捉える。人間の行動とは、本人の意識においては、自由で束縛のないものとして表象される場合でも、無意識でコントロールのきかない動機や、個々人にとっては外的な制約として機能するさまざまな規範によって動かされているとするのである。

文化人類学における外的な規範という概念は、レヴィ・ストロースの構造の概念を援用したものだ。この構造という概念は応用範囲の広い概念で、文化人類学以外の分野でも使える。構造概念の本家である構造言語学は勿論、心理学や社会学にも応用できる。

だが、精神分析における無意識と言い、文化人類学における構造(外的規範の体系)と言い、ある意味、人間の概念をはみ出すところがある。この場合の人間とは、意識的でかつ自立的な存在としての人間を意味する。いわば合理的な人間観による人間である。人間は、たしかに無意識で非合理な側面やら外的な規範に左右される非主体的な側面を持っているにしても、それは人間の持つ一面に過ぎない。人間概念の中心をなすものは、あくまでも意識的で主体的な合理的存在としての側面なのである。

ところが、無意識や構造を強調しすぎると、それらが人間の意識や自立的な活動とどこかで結びついていることが忘れられ、それ自体が暴走する可能性がある。その結果、人間とは無意識に突き動かされる非合理な存在なのであり、外的規範に左右される非主体的な存在だということになりかねない。つまり人間の持っている複雑な面のうち、合理的な面が忘れられ、非合理的な面ばかりが強調される恐れがある。そうなると、もはや人間という概念にこだわる必要がないということになってゆく。フーコーのいう人間の消滅とは、そういうことをさしているようである。人間なしでも説明できるのであれば、人間は不要になるというわけであろう。

しかし、人間を不要とするような学問が一体ありえるのか、我々はそう自問せずにはいられない。しかし、それは我々が今あるエピステーメーに縛られているからだ、というのがフーコーの答えである。しかもその今あるエピステーメーでさえ、人間という概念にこだわらなくなりつつある、とフーコーは言う。

「精神分析と文化人類学は、人間という概念なしですますことができるばかりか、人間を経ていくこともありえない。なぜなら、それらは常に人間の外部の諸限界を構成するものを対象とするからだ。この二つの学問については、レヴィ=ストロースが文化人類学について語った、それらは人間を解消するものだという言葉を繰り返すことができるであろう」(同上)

つまりフーコーは、精神分析学は無意識を通じて人間の意識の限界を明らかにし、文化人類学は構造の概念を通じて人間の行動様式を外側から動かしている要因を明らかにするものだと言っているわけだが、これらはいずれも「人間の外部の諸限界」というように捕らえられているわけである。人間の外部にある限界を設定することで、間接的に人間の内部をあきらかにするのだと考えるのである。

人間の内部とは、とりあえずは人間そのものとイコールだと考えてよい、というのが近代のエピステーメーの前提であった。その人間の内部を説明するのに、その外延(=限界)を明らかにするというのは、説明のひとつのやり方には違いないが、それによって人間というものが遺漏なく説明されたことにはなるまい。ところが、精神分析や構造主義的文化人類学は、そのようなやり方をとっている。ということは、それらの学問にとっての人間の概念が、これまでの常識的な概念とは違ってきているということを意味する。

つまり、人間を論じながら、その人間についての考え方が、以前とは違ってきているのである。その違いが、従来の人間観は通用しなくなったという言明ではなく、ずばり「人間は消滅した」というような過激な言明をもたらしたのであろう。

人間が消滅したあとには、何が現れるのだろう。それは、新しいエピステーメーがどのような形をとるのかによる。それがどのような形をとるようになるかは、今のエピステーメーに拘束されている近代人にはわからない。エピステーメーの変転は突然変異のように起るのであるから、その発生や特徴について予測することは原理上できないのである。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2016
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