知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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若者愛の価値剥奪:フーコー「自己への配慮」


紀元一・二世紀のギリシャ・ローマ世界において、性倫理の領域で夫婦の結婚生活に価値付与がなされる一方で、あのソクラテスの愛に代表される伝統的な若者愛がますます軽視されてゆくようになる。だからといって、「若者愛の実践が消滅してしまったとか、価値剥奪の対象になってしまったとか、という意味ではない」(「自己への配慮」第六章、田村俶訳)とフーコーは言う。若者愛は積極的な価値剥奪の対象になったというよりも、その問題が陳腐化したのであり、それに寄せる人々の関心が後退したのである。このことをフーコーは若者愛の「脱問題化」と表現している。「男同士の愛の関係は、理論面と道徳面の激しい論議の焦点となるのを止めるのである」(同上)

とはいえ、若者愛をめぐる議論が全くなくなってしまったわけではない。フーコーはそうした議論のなかから、プルタルコスと擬ルキアノスのテクストを検討することで、この時代に生じた若者愛への人々の係わり合いの変化について検討している。その検討を通じて、若者愛が「脱問題化」を通じて次第に「価値剥奪」の対象となっていくべき理路のようなものを炙り出すであろう。

プルタルコスの「愛にかんする対話」は、「結婚の表徴のもとに始まり、そして終わっている」とフーコーが言うように、結婚関係における男女の愛を、愛のもっとも理想的な形と考える立場に立っている。「ほかのいかなる関係にも増して夫婦の絆は<愛>の力を受け入れることができ、しかもこの<愛>の力は、自らの特権的な場を人々のうち夫婦にこそ見つけ出すということを明らかにしようというのだ」(同上)

ところが面白いことには、プルタルコスが言うところの<愛>とは、異性間においてと同性間においてとで、その内実を異にするものとはされていない。どちらも同じ基準で考えられている。ソクラテスが異性愛に付与した条件は、プルタルコスが夫婦の間の愛に見出したものと基本的には違わないのである。そうした<愛>の基準に照らしてなお、同性愛は異性愛に劣るとするのがプルタルコスの議論の特徴なのである。「プルタルコスの『対話』のなかに人々が認めるのは、男と女の関係モデルにもとづいて、さらには夫と妻の関係モデルにもとづいてきわめて鮮明に組立てられる、統一的な<エロス論>を構成しようとする努力である。この統一的な愛(女性を対象とする場合でも若者を対象とする場合でも、同一のものだと考えられている愛)との関連によって、男同士の愛着は実際、価値剥奪を見るだろう。だがだからといって、<同性愛>あるいは<異性愛>の行為のあいだに、後代そうなるようには厳重な境界線は引かれないのである」(同上)

この同じ<愛>の基準に照らして夫婦の間の愛がすぐれているのは、それが人間の自然と調和しているからである。男と女は自然によって性的にひきつけられあうように出来ているし、その結合にはなんらの欺瞞もない。それに対して男同士の結合には欺瞞がある。というのも、男同士の愛にはどうしても肉体的な契機を強調するのがはばかれられる部分があるからである。この偽善をプルタルコスは、著作中の人物の口をかりて、次のように指摘している。「涙にくれながらもアキレウスが{親友}パトロクロスの尻のことを思い起こさなかったように、花盛りの若者たちについてソロンが『彼等の尻や唇の心地よさ』を讃えて歌わなかったように、若者たちを愛好する連中は好んで哲学者や賢者のように構えるものである」(同上)

かつては男同士の愛に固有のものとされた友情も、プルタルコスにあっては夫婦間でも見られるもの、というよりか一層強固な友情は夫婦間において可能だということになる。一方、夫婦間には同性間には欠けているものがある。それは<やさしさ>であって、異性愛だけがこのやさしさを相互に取交わす場となりうるのだ。これに対して若者愛には、相互のやさしさは期待できない。なぜなら、夫婦愛と違って若者愛には、力の相違が介在しているからである。やさしさはプルタルコスによれば、同等の立場のものが相互に交し合うところに生命をもつ。上位のものが下位のものにかける気遣いは、やさしさというよりは寛大さなのである。

以上の議論を通じてプルタルコスは、結婚こそが愛の実践の理想的な形なのだと主張しているわけである。「それが実際この対話の最終目標である。すなわち結婚のなかに自らの完璧な実現を見出しうる愛のこの統一的な体系は、少なくともその完全な形式においては、若者との関係のなかに位置を占めるわけにはいくまいという点を明示すること。この若者との関係はその伝統的な価値とともに、愛の一般概念にたいして支柱ならびに範例として役立つことはできたけれども、結局のところ、価値を失い権威をなくしている。つまり夫婦愛に比べると不完全な愛」(同上)

ルキアノスのものとされる「エロス論」は、明らかに後代のテクストであることから、これをフーコーは「擬ルキアノス」と呼んでいる。このテクストは、プラトン主義を展開する若者愛好者と、ストア主義を標榜する女性擁護者との論争という形をとって、若者愛と異性愛とではどちらが自然的・道徳的に優れているかについて論じたものである。結論的には若者愛の擁護者が勝ったということになっているが、その議論の中身をよくよく吟味すると、夫婦の結婚生活を場とした異性愛が、若者愛を放逐してゆく動きを見て取ることができる。

このテクストのなかで若者愛が勝利した理由は、男同士の愛において肉体の快楽がたくみに避けられているあの伝統的な図式が勝利したということになっているのであるが、その図式に対して、ただちに第三者による反語が述べられるのである。というのも、「その勝利たるや、その愛が哲学とか美徳とかと、したがって肉体の快楽の排除とかと結びついているからである」。肉体の快楽を排除した<愛>は、愛の名に値しないというのは、プルタルコスの議論のなかでも言われていたことである。実際は同性愛においても肉体の快楽は当然伴うのであるが、それを正面から認めることが出来ない。そんなディレンマが、同性愛をめぐる伝統的な図式に不利に働いたわけである。

こうして同性愛は、紀元一・二世紀のギリシャ・ローマ世界にあっては、まったく価値剥奪されたというわけではないが、次第に日陰者の位置に追いやられていく。ソクラテスの時代には、人々の前で公然と若者愛が語られ、また、ソクラテスやプラトン自身自由な市民の若者と同性愛の行為に耽っていたわけなのだが、この時代になると、自由な市民のあいだでの同性愛は下火になる。同性愛はいまや、奴隷を相手にして行われる、ある種の秘め事になるのだ。実際帝政ローマ時代のローマ人たちが、奴隷を相手に性的快楽を楽しんでいたことは、フェリーニの映画「サテリコン」でも触れられているとおり、男同士の愛の営みというより、裕福な市民が資産としての奴隷を自分の快楽のために消費するという一方的な図式に墜落しているのである。




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