知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルの読みづらさ


筆者は学生時代に、日本語に訳されたヘーゲルの著作をひととおり読んだことがあるが、それはマルクス理解を深めることが目的だった。マルクスはヘーゲル哲学に多大な影響を受けており、ドイツ・イデオロギーなどに展開された初期の思想は無論、資本論などの円熟期の著作にもヘーゲルの影響が顕著に表れている。そんなことを先輩から知らされたからだ。そこで手始めに大論理学を読んでみた。資本論の論理の構築が大論理学のそれを踏まえているとされていたからだ。すると、資本論と大論理学との間に、極めて顕著な共通性のあることが分かった。論理の組み立て方がほとんど同じと言ってもよい、そんな風に思われたのだった。量から質への転化を弁証法的に論じるところ、また論理の飛躍を印象付けるフレーズとして、資本論には「ここがロドスだ、ここにて跳べ」あるいは「ミネルバのフクロウは夜飛び立つ」といった警句がちりばめられているが、これらの警句はヘーゲルの大論理学にもあった。そんなわけで筆者は、マルクスがヘーゲルに大きな影響を受けていたことを改めて感じとった次第なのであった。

しかしひとつ困ったことがあった。ヘーゲルの文章は極めて読みづらいのである。一般に哲学者の文章は読みづらいものだが、ヘーゲルの文章の読みづらさは並大抵のことではない。大論理学も読みづらかったが、精神現象学になると、それこそ何を言おうとしているのか、字面からわからないところが多い。そこで、仲間たちと輪読会などをやって、ヘーゲルがいったい何を言おうとしているのか、知恵を寄せ集めて解釈したものであったが、それでもわからないことが多すぎる。そんなわけで筆者は、こと精神現象学については、全面的な理解ができないままで終わってしまったことを覚えている。

ヘーゲルの文章は何故こんなにも読みづらいのか、あるいは理解しづらいのか、筆者なりに考え続けてきた。ひとつ考えられたのは、翻訳が介在することによって、原文の趣旨がうまく伝わらないのではないか、ということだった。しかし、同じヘーゲルの著作でも、歴史哲学や法哲学と言った著作は理解がしやすい。歴史哲学はそもそもヘーゲル自筆のものではなく、弟子たちがヘーゲルの講義をもとに書き起こしたものだそうだが、法哲学の方はテーゲルが自筆で書いたものである。この両者ともに、日本語に翻訳された文章は、そんなに理解が難しくはない。だから、精神現象学の場合には、必ずしも翻訳だけのせいではなく、他の要因が関わっているのではないか、と感じざるを得ない。それは何なのか。こんな古くからの問題意識を引きずりながら、最近ようやく精神現象学を熟読した。その結果、理解できない部分はまだ残ってはいるが、何とかその全体像を把握できるような読み方をすることができた。

筆者がテクストに用いたのは、わかりやすい訳で知られる長谷川宏の訳である。長谷川宏は難しい専門用語をなるべく日常用語に置き代えることによって、テクストを理解しやすく務めていることで定評がある。実際長谷川宏の訳は、他の学者の訳よりも読みやすい、ということになっている。そこで、その読みやすさを期待しながら精神現象学を読み進んだ次第だったが、やはり文章の難しさ、わかりにくさは到底払しょくされているとは言えない。何をいっているのかわからないところが、相変わらず多いように感じられるのである。

ここで一例として、筆者が学生時代に用いた樫山欽四郎の訳と長谷川宏の訳を読み比べてみよう。まず、全体の序論の中で、実体が主体であることを論じた有名な箇所のテクストから。(これは樫山訳では「序論」、長谷川訳では「まえがき」となっている)樫山訳は次のとおりである。

「さらに、生きた実体は、実際には主観(体)であるような存在である。同じことになるが、実体は、自己自身を措定する運動、自己が他者となることを自己自身と媒介するはたらきである限りでのみ、実際に現実であるような存在である。実体は主観(体)としては純粋な否定性である。であるからこそ、単純なものを二つに引きはなす、つまり対立させて二重なものとする。この二重作用が二つのものの無関心な違いと対立を更に否定する。真理とは、このように自己を回復する相等性もしくは他在において自己自身へと復帰(反照)することにほかならないのであって、本源的な統一そのものではない。真理とは自己自身が生成することであり、自らの終わりを自らの目的として前提し、始まりとし、それが実現され終わりに達したときに初めて現実であるような、円環である」

この同じ部分は、長谷川宏訳では、次のとおりになる。

「生きた実体こそ、真に主体的な、言い換えれば、真に現実的な存在だが、そういえるのは、実体が自分自身を確立すべく運動するからであり、自分のそとに出ていきつつ自分のもとにとどまるからである。実体が主体であるということは、そこに純粋で単純な否定の力が働き、まさしくそれゆえに、単一のものが分裂するということである。が、対立の動きはもういちど起こって、分裂したそれぞれが相手と関係なくただ向かいあって立つ、という状態が否定される。こうして再建される統一、いいかえれば、外に出ていきながら自分をふりかえるという動きこそが~最初にあった直接の統一とはちがう、この第二の統一こそが~真理なのだ。真理は自ら生成するものであり、自分の終点を前もって目的に設定し、始まりの地点ですでに目の前にもち、中間の展開過程を経て終点に達するとき、初めて現実的なものとなる円環なのである」

この二つの文章を読み比べると、たしかに長谷川宏訳の方が、日常語に近いやさしい言葉を使っているような印象は受ける。しかしだからといって、それだけ理解しやすくなっているかというと、必ずしもそうではない。ここで述べられているのは、生きた実体は主体であること、主体であるとはそこに否定の作用が働いて分裂が生じること、しかしその分裂はやがて解消され、あらたな統一が回復されること、この回復された新たな統一こそが真理なのだ、というようなことなのだろうと推測はつくが、それで中身が本当に理解できたかというと、読者としてははなはだ心もとない。

つまり、ヘーゲルのわかりづらさは、ドイツ語を日本語に移し替えるプロセスに淵源しているというより、ヘーゲルの原文そのものにあるということができそうだ。ヘーゲルは、実体とか主体とか、否定性とか分裂とか、生成とか回復とかという言葉を好んで使うのであるが、それらがどのような意味合いで使われているのか、厳密な定義なしにいきなり持ち出すところがある。したがって上の文章においても、実体が主体であるというテーゼがいきなり提起されるばかりで、実体とは何かとか、主体かは何かと言った議論は抜きにして、この二つは同じものだと断定されてしまうので、読者は得体の知れぬ怪物とむりやり友好関係を結ばされたような気分になってしまうわけだ。

つまり、ヘーゲルのわかりづらいところは、その独特の言葉遣いに由来している。たとえば「AがBに変化する」という意味の言説を、「Aが否定されてBが生成する」というような、わざわざもったいぶったとしか思われぬような言い方をする。万事がこの調子であるから、ヘーゲルの文章は、彼独特の使い方を、前提としてわかっていないと、非常に理解しにくいのである。

とうのもヘーゲル自身が、真理とは全体のうちにある、というより全体の生成プロセスそのものだ、というような言い方をしているとおり、ある言説の意味は、前もって定義された言葉によって語ることはできず、全体を語り終わったその時点で、(使われている言葉の意味を含めて)初めて明瞭な姿を現すのだ、というのである。

哲学はともかく、普通の科学的な学問の場合には、言葉というものは、それが使われる前に明確に定義されなければならない、というのが大方の了解といえよう。言葉の意味する内実が厳密に定義されなければ、それを用いて主張されている言説がどのような意味を持っているのか、明確に理解できない、というのがこの了解の意味するところである。

ヘーゲルはしかし、これとは違った考え方を持っていたようだ。言説というものは、全体を言い終えて初めて意味が伝わる、というような考え方である。ヘーゲルのわかりづらさは、彼が世の中の常識から外れた、しかも極めて個人的な言葉遣いをしていることに由来している。どうもそのように受け取れるのだ。




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