知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ヘーゲルの理性


へーゲルの精神現象学は、意識、自己意識に続いて、理性へと進む。しかし理性の登場の仕方が聊か唐突なので、読者はちょっと面食らう。というのも、意識、自己意識と読み進んできた読者の前に、いきなり理性があらわれて、こう宣言するからだ。「理性とは、物の世界のすべてに行き渡っているという意識の確信である」(長谷川宏訳「精神現象学」Ⅴ、理性の確信と真理、以下同じ)

え、何のことを言っているんだい。これが、読者がまず抱く素朴な疑問だろう。物の世界のすべてに行き渡っているとはどういう意味なのかい、何がどのようにして行き渡っているのかよくわからんし、理性と意識の確信の関係もいまひとつわからん。要するに、言っている事の意味がはっきりせん。こんな表現で我々読者を煙に巻くのは止めて、もっとわかりやすくいってもらいたい。誰もが、こんな風に感じたとしても、おかしくないところだ。

ヘーゲルの言葉遣いのわかりにくさは、これに限ったことではないが、それにしてもわかりにくい。そこで筆者なりに、前後の文脈を考慮しながら、この言説の意味を考えてみた。

意識の章においてヘーゲルが取り上げていたのは、意識の主体と対象の関係であった。主観と客観との関係と言ってもよい。この中でヘーゲルは、主体と対象、主観と客観とが対立しているばかりではなく、統一してもいると論じた。何故なら、主観といい、客観といい、同じものが見方の相違によって異なって見えるに過ぎないからである。

ついで、自己意識の章においては、ヘーゲルは人間同士の関係を取り上げた。その中でヘーゲルは、人間は孤立した抽象的な存在に留まるのではなく、人間社会の一員として存在するのであるし、したがって世界の見方についても、人間社会の制約を受ける、と考えた。ここでは個別者としての個人と普遍的存在としての人間社会との相互の対立と統一の相が展開されていたわけである。

理性は、意識と自己意識の後に、それらの統一体として現れる。ここでいう統一とは単なる寄せ集めではなく、否定を媒介とした統一である。したがって、対象との関わり合いにおいては、理性は対象を否定しつつ保持するという態度をとる。また、他の自己意識との関わり合いにおいては、理性は人間社会の制約を否定しつつ保持するという態度をとる。対象も人間社会の制約も、自分とは異なったものに見えながらも、実は自分と異なったものではない、そういう風に受け取るわけだ。ということは、対象的世界も人間社会も、自分自身の疎外された様態に過ぎないということである。そこから「理性とは、物の世界のすべてに行き渡っているという意識の確信」が生まれてくるわけである。

これでもまだ紛らわしいようなら、もっとストレートに言ってみよう。

我々の目には主観と客観、個別と普遍との対立と見えるものは、実は本当の対立ではない。主観も客観も、同じ一つの物、すなわち絶対精神が自己疎外して個別化したものに過ぎない。だから絶対精神の立場からすれば、どちらも自分自身の一つの契機に過ぎない。それが対立して見えるのは、外化され個別化したものの立場から見るからだ。つまり我々個別の人間は、絶対精神の疎外された形である限り制約を受けた存在であるが、可能態としては、絶対精神そのものの一部として無制約なのである。

個別と普遍との関係についても、同じようなことがいえる。個別の存在としての個人と普遍的な存在としての人間社会とでは、一見対立した関係にあるように見えるが、そうではない。どちらも絶対精神の立場からすれば、自分自身の一契機に過ぎない。絶対精神が自己疎外して個別化したものが個人なのであるし、それがある一定の人間社会にとって倫理的な枠組となったものが、当該の人間社会がその成員たる個人に課す制約となるに過ぎない。

こんなわけで、我々が生きているこの世界は、絶対精神というものが自己疎外して展開したものなのだ。その絶対精神が人間の意識の形をとると、理性になる。その理性の立場からすると、この世界が絶対精神の現れだということは、理性としての自分自身がこの世界全体を成り立たせている根拠だ、ということだ。そこから、「理性とは、物の世界のすべてに行き渡っているという意識の確信」が生まれてくるわけなのである。

要するに、ヘーゲルが理性の章で展開しているのは、絶対的な観念論だということになる。絶対的なというのは、それがこの世界についての唯一の説明原理であるということであり、観念論というのは、この世界を精神という観念的な原理で説明しているからである。

上述の理性についての宣言に続いて、ヘーゲルは次のようにいっている。

「理性をそういうものとしてとらえるのが、観念論の立場である。理性として登場する意識が、すべてに行き渡っているという確信をあっさりとわがものにしているさまを、観念論がこれまたあっさりとことばにしたものが、"わたしはわたしだ"という命題である。ただし、ここでわたしの対象となるわたしは、自己意識が一般に対象とする空虚なわたしでもなければ、自由な自己意識が対象とするような、自分と並んであるものをそのままにしておいて自分に引きこもるわたしでもなく、自分以外に対象の存在しないことを意識しているわたし、現実にある物の世界すべてに行き渡っている唯一の対象たるわたしなのであるが」

ここでヘーゲルの言っているわたしとは、絶対精神そのものと一体化したものとしてのわたしであって、デカルトやカントが想定していたような、孤立した抽象的な存在としてのわたしでないことはいうまでもない。絶対精神の権化となったわたしが、この世界は自分自身が充満した、自分自身そのものであるような世界なのだと喝破するわけなのである。

これを言い換えると、理性とは主観と客観とが混然と融合したもの、また個別と普遍とが一致したものということになる。主客の対立とか個普の対立とかいうものは、疎外され個別化された個人の意識の視野にそう見えるだけなのであり、絶対精神の立場から見れば、みな自分自身の姿そのものなのである。

しかして、この絶対精神が個人の意識に宿ったもの、それが理性なのだと言い換えることも出来る。その立場からすれば、「理性的なものが現実的であり、現実的なものが理性的なものである」(法哲学)ということになる。現実の世界は理性が実現した姿にほかならないのであるから。


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