知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カントのアンチノミー(二律背反)


アンチノミー(二律背反)に関するカントの議論は、理性概念としての理念(イデア)を論じるときに人間が陥りやすい罠について、その原因とそれが生じる必然性のようなものについて論じたものである。先に取り上げた誤謬推論や神の存在証明にまつわる議論と並んで、カント哲学のハイライトともいうべき部分である。

二律背反とは、同一の事柄について、ふたつの矛盾・対立する命題が同時に成立する事態をさしていう論理学の用語である。論理学においては、それはありえない事態を意味している。ところが人間の作り出した理念をめぐっては、このありえないことが生じる。それはなぜか。このことを論じたのがカントのアンチノミーを巡る議論なのである。

カントは二律背反表として四組のアンチノミーをあげている。

第一のアンチノミー:世界は時間的に端緒を持ち、空間的に限界を持つ、即ち有限である(定立命題)、世界は時間的に端緒を持たず、空間的に限界を持たない、すなわち無限である(反定立命題)。

第二のアンチノミー:世界は究極の構成要素としての単純な実体から構成されている(定立命題)、世界には単純な実体は存在せず、構成要素はどこまでも分割可能である(反定立命題)

第三のアンチノミー:自然法則に基づいた必然的な因果関係のほかに、人間の自由に基づいた因果関係も存在する(定立命題)、自由に基づいた因果関係は存在せず、自然法則に基づいた因果関係だけが存在する(反定立命題)。

第四のアンチノミーは少しわかりづらいが、簡単にいえば、神は存在するという定立命題と、神は存在しないという反定立命題との対立である。

伝統的な論理学によれば、相互に矛盾しあう命題は、同時に真理であることはできず、一方が真なら、他方は偽であるはずだ。ところが、この四つのアンチノミーの議論は、対立しあう二つの命題が、ともに真であることを主張するのである、。

どのような理屈でそうなるのか、カントはそれぞれのアンチノミーについて、ひとつづつ検討している。ここでは、第一のアンチノミーのうちの、空間を巡るものについての、カントの議論を紹介しておこう。

世界は時間的に端緒を持つ、即ち有限であるというのが定立命題、世界は時間的に端緒を持たず、したがって無限であるというのが反定立命題である。これらがいづれも真理を主張するのは、どのような理屈によってか。

カントは、一方の命題の正当性を、他方の命題に潜む矛盾を明らかにすることで証明する方法(背理法)を取っている。つまり、定立命題はその正統性を反定立命題の非正統性を指摘することによって証明し、反定立命題は、その正統性を定立命題の非正統性を指摘することによって証明しようとするわけだ。この証明方法は、他のアンチノミーにおいても共通している。

まず、定立命題。反定立命題が言うように世界に端緒がないとしたら、現在の世界が生まれるまでには無限の時間が経過していることになる。「ということは、世界において物が継起する状態の無限の系列がすでに過ぎ去ったことになる。しかし、系列が無限であるということは、継起するものの総合によっては決して完結することがないということである。だから世界の系列が無限に過ぎ去っているということは不可能である。こうして、世界に端緒があることは、世界が現実に存在することの必然的な条件だということになる」(中山元訳、以下同じ)なにやら屁理屈のように聞こえるが、カントは大まじめなのだ。

反定立命題。定立命題がいうように世界には端緒があったとしたら、それ以前には世界の存在しない「空虚な時間が流れていたに違いない。しかし空虚な時間においては、ある事態が生起することはできない」それ故、「世界の内部では、多数の事物の系列が始まることができるが、世界そのものは端緒を持たない。

このように、この一対の命題は、それぞれが正統性を主張している。しかし、もしどちらにも正統性があることを理性が認めるとしたら、それは二枚舌を使っているようなものだ。同時に有限でありながらかつ無限であることは、論理上ナンセンスだからだ。

それ故、このアンチノミーには、どこかに誤謬が潜んでいる、とカントはいう。カントはその誤謬を、二通りの方法で暴いている。ひとつは形式論理的な無理を指摘する方法、もう一つは人間の理性の本質に着目した指摘である。

この対立は一見して矛盾対当のような印象を与える。矛盾対当とは、片方が真であればもう片方は偽であるような対立関係である。しかし対立する関係にはこのほか、反対対当というものがある。これは、両方が真であることはできないが、両方が偽であることは可能な対立である。カントは、この第一のアンチノミーを、矛盾対当ではなく反対対当であるとし、両方とも偽の命題なのだということによって、このアンチノミーを解消してしまうのである。

対立関係にはまた、両方とも真でありうるものがある。カントはそれを小反対対当といった。そうしたうえで、四対のアンチノミーのうち、第一と第二は反対対当、第三と第四は小反対対当であるとして、これら四つのアンチノミーがは、理性の誤謬による産物なのだというのである。

では何故、理性はこのような誤謬に陥るのか。それは、先に誤謬推論のところで指摘したのと同じような過ちを、理性が犯すからだとカントは言う。しかしカントにとって、こうした誤謬は理性にとっては避けがたいものなのである。

世界の時間的な端緒と言い、空間的な限界と言い、それらは直感によってとらえられるものではなく、あくまでも理性による推論の産物である。その推論の産物に過ぎないものが、あたかも客観的な実在として存在するように考える、ここに誤謬の原因がひそんでいるのだとカントは言うわけなのだ。我々にとって世界とは、あくまでも現象としてあらわれる限りでのものにすぎない。それをあたかも、現象を超越した物自体としてとらえるところに、そもそもの問題の端緒がある、というわけである。

ところで、カントにおいては、アンチノミー論は理性の否定的な活動を示すものであったが、それを理性の肯定的な活動と捉えた思想家がいる。ヘーゲルである。ヘーゲルの弁証法は、カントのアンチノミー論を踏まえたものなのである。

日本語への翻訳の過程で、カントとヘーゲルの言葉遣いは殆ど共通性が感じられないものとなってしまっているが、彼等は基本的な概念に関して全く同じ言葉を使っている。たとえばヘーゲルの弁証法も、カントの弁証論も、どちらもドイツ語ではディアレクティックである。ディアレクティックとは、ギリシャ語由来の言葉で、「ふたつの異なった言明」を意味する。それをカントは「二律背反」と関連付け、ヘーゲルは同じコインの裏表のような関係としてとらえたわけだ。

このように、ヘーゲルの思想はカントの思想と深くかかわっている。カントのアンチノミーにおける定立~反定立の関係を、ヘーゲルは即自~対自の関係に置き換え、そこから弁証法の壮大な体系を構築したのである。




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