知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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キルケゴールをどう読むか:とくに日本人として


キルケゴールの読み方にはいろいろある。文学作品として、倫理的あるいは心理学的著作として、あるいは哲学書として読めるだろうし、勿論深い宗教的真理を語った著作として読むこともできる。「誘惑者の日記」や「酒中に真あり」などの文学的な著作は、世界の文学史を飾るに足るすばらしい作品であるし、彼の倫理的・宗教的な主張はその後の時代の倫理学説や宗教上の議論に深刻な影響をもたらしたところだし、彼が展開した哲学的な議論は、ハイデッガーやヤスパースらによって取り上げられ、いわゆる実存主義哲学の形成に甚大な影響を及ぼした。どんな切り口から入っても、キルケゴールは尽きせぬインスピレーションを与えてくれる偉大な人物だ。それ故筆者のようなものまで、青年時代のある時期、キルケゴールにいかれたことがあったのも、無理もない話だといえよう。

しかし、キルケゴールのどのような部分を、どのように読むにしても、そこには必ず躓きの石ともいうべきものが待ち構えている。読者はこの石を自分なりに乗り越えないと、キルケゴールという特異な人物の内面に立ち入ることが出来ない。内面は、キルケゴールにとっては彼自身と同義語といえるほど本質的なものであるので、彼の内面を理解しえないでは、彼を理解することはできないのである。

その躓きの石とは何か。それは信仰である。しかもその信仰は信仰一般としての普遍的な意味での信仰ではなく、一人の、しかも現に生きている人間にとっての、特殊具体的な信仰である。キルケゴールにとって、現にこの世に生きているということは、信仰のうちに生きているということを意味した。彼の著作活動もだから、彼の信仰を語ったものなのである。それ故、彼の信仰を理解しないでは、彼を理解したことにはならない。

キルケゴールは自分の生涯を信仰に捧げた。その信仰が彼自身にとっての、彼自身のための、彼自身による特殊具体的な信仰であったことは、上述したところから自ずから明らかなことだと思うが、しからば、その特殊具体的な信仰とは、どんな信仰だったのか。

重ねて言うが、これがわからないと、キルケゴールという人物を理解することはできない。

まず確認できることは、キルケゴールの信仰がキリスト教であったということである。信仰はキルケゴールにとって人間が人間であるための最低の条件であるから、キリスト教を信仰することが人間であることの前提となる。したがって、異教徒は、あのギリシャ人も含めて、真の意味の人間であることはできなかった。いわんや、我々東洋人は、真の人間からは遥かに遠いところにあるということになる。ソクラテスはキリストの存在さえ知らなかったのだから、ある意味、彼が信仰に目覚めることがなかったのは歴史のいたずらに帰することが出来る。しかし我々東洋人は、キリストの存在を知りながらキリストを信仰することがないのであるから、非常に罪深いということになる。キルケゴールにとって、我々普通の東洋人は生きる価値がないもののようである。

では、キリストを信じるとはキリスト教徒であることと同義なのか。そうではないとキルケゴールはいう。キルケゴールにとって真のキリスト教とはまずルター派の新教をイメージしたものだった。だからカトリックの信仰は真のキリスト信仰とはいえない。なぜならカトリックは、教会の会員であることを信仰の証しとし、信者の内面は問題にすることがないからである。真の信仰とはそんなものではない。真の信仰とは一人一人が神と直接に向き合うところから生まれる。信仰はカトリックにおけるように外面的な状態なのではなく、内面的な行為なのだ。

こんなわけで、キルケゴールはルター派の教えを中核にして、自分の思想を組み立てていく。ということは、彼はルター派の教え(それは教会の神父が語っている事であるが)に盲従するのではなく、自分自身が一人の個別的存在として神に向き合い、神の指示に直接従うことが眼目だとするのである。信仰とは教会の問題ではなく、個人の問題である。個人が直接神と向き合い、そこから己の生き方についての指針を受け取る。これが真の信仰者の生き方である。

キルケゴールの著作活動は、すべてにわたって、信仰についての彼の考え方を述べたものである。直接信仰を語った著作群は無論、倫理的な著作や審美的といわれる著作群もそうである。たとえば有名な「誘惑者の日記」などは純粋に審美的な著作だと思われているが、実はこれも、審美的な生き方を究極まで押し詰めることで、その先に見えてくる信仰を示唆したものなのである。ここではキルケゴールは信仰について直接語ることがない。しかし審美的な問題について語ることで、その限界を明らかにし、その先に見えてくる神の啓示を示したものなのである。

哲学的著作と言われるものも、語られていることは信仰に関することである。彼の著作のうち哲学的著作といわれるものの代表作は、「哲学的断片」と「哲学的断片へのあとがき」であるが、これらの著作で展開されていることは、普通の意味での哲学的なテーマではなく、人はいかにしてキリスト者になるか、という信仰にかかわる問題なのである。

議論がようやく核心に近づいてきたようだ。というのも筆者がここで展開したいと思っているテーマは、哲学者としてのキルケゴールだからだ。キリスト者としてのキルケゴールについて語るうちに、哲学者としてのキルケゴールの顔が見えてきた、というわけである。

哲学史上におけるキルケゴールの位置は極めて特異なものである。彼は一応実存主義哲学の先駆者という位置づけになっているが、伝統的なスタイルの哲学の議論を展開したわけではない。上述したように、彼が展開したのは、人はいかにしてキリスト者になるか、という宗教的な議論だったのである。その過程で、時代に大きな影響をもった哲学者に言及することはあったが(たとえばヘーゲル批判)、それはあたかも刺身のつまのように、つまらぬものとして言及されるのが常であった。(もっともキルケゴール自身、自分の思想のスタイルを確立するうえで、ヘーゲルの哲学に多くを学んだことは認めているが)

こんな人物の思想が、何故哲学者たちの関心を引き、西洋の哲学史上に確固たる地位を確保するに至ったのか。そのことが理解できないと、キルケゴールを理解したことにはならない。

そのキルケゴール理解の鍵となるようなものを是非探り当ててみたい。それが、「知の快楽」と題した筆者のこの試みのなかで、キルケゴールに割り当てた部分の課題となるだろう。それが少しでもわかれば、我々日本人にとっても、キルケゴールが少しは身近な存在になるだろうと思う。またそうならならなければ、我々がキルケゴールを読む価値はないということになろう。何しろキルケゴール自身は、異教徒(我々のこと)は罪のうちに安住しているのであるし、その安住の中で人間としての誇りも失っている、などと言っているのであるから。




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