知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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キルケゴールにおける生成の概念


キルケゴールは生成の概念をおそらくヘーゲルから学んだのだと思う。だが、その概念の用い方はヘーゲルとは全く異なる。ヘーゲルにおいては生成とは変化に関わる概念であったのに対して、キルケゴールはそれを無から有への移行、すなわち発生あるいは出現のようなものとしてとらえたのである。

ヘーゲルは彼一流のもったいぶった言い方で、AがBに変化するという単純なことを、Aが否定されてBが生成する、と表現する。このことでヘーゲルは、AがだらだらとだらしなくBになるのではなく、Aが一旦否定されてそこに分裂が生じ、その分裂が再否定されて新たな統一が生じ、その結果新たな統一体としてのBが生成してくるといいたいわけなのである。ヘーゲルにおいて生成とは、措定~否定~統一の各段階を踏みながら進んでいく弁証法的運動のプロセスをあらわす概念なのである。そたがってそれは基本的に、変化にかかわる動的な概念である。

これに対してキルケゴールは生成を無から有への移行、すなわち非存在から存在への移行と捉えた。ヘーゲルがいう生成はある存在から別の存在への移行であるから、厳密な意味で生成と言うわけにはいかない、それは存在のある規定性が否定されて別の規定性へ変化したという意味で、本質が変化したということはできるが、生成したとはいえない、ヘーゲルのいう生成は本質に関する規定であるが、それは厳密には生成とは言えない、生成とはあくまでも存在に関する規定なのだ、とキルケゴールはいうわけである。

ヘーゲルはまた、生成に関して必然性ということをよく言う。Aが否定されてBが生成したことには必然性があったのだという言い方だ。現象の背後には一定の法則が働いており、したがってすべての出来事は必然性に支配されている、という意味に受け取ってよい。しかし、とキルケゴールはいう。必然性とは本質にかかわる概念であって、存在に関わる概念ではない。存在に関わる概念は、可能性と現実性である。可能性とは、言葉通り存在することが可能ではあるがまだ存在していない事態をさす。現実性とは可能性が実現されて存在するに至った事態をさす。可能性から現実性への移行は必然性によって起こるわけではない。「あらゆる生成は自由によっておこるのであり、必然性によって起こるのではない」(「哲学的断片」矢内原伊作訳、以下同じ)

キルケゴールがここで必然性に関する議論を持ち出しているのは、神の存在を必然性の概念によって証明しようとする動きが根強いことを意識してのことである。神の存在証明は最終的にはデカルトが展開したアプリオリな証明の議論に帰着するが、それは神の概念には存在の概念が含まれているがゆえに、神は必然的に存在するというものであった。ところがデカルトがここで言及している必然性とは、あくまでも本質にかかわることであって、存在にかかわることではない。本質上つまり理屈上存在することになっているからと言って、現実に存在するとは限らない。存在とは論理の上での仮定なのではなく、事実上の出来事或いは事態なのだ。そうキルケゴールはいうわけなのである。すなわち、

「必然性によって生成するものはなく、必然性そのものが生成するということもなく、また生成することによって必然的なものとなるということもあり得ない。必然なるがゆえに存在するというものは一つとしてない」

キルケゴールがこのようにいうのは、神の存在を論理的に説明することによっては、本当の信仰は獲得できないと考えるからである。神が存在するのは必然性によってではなく、事実としてである。我々は一人の単独者として神と向き合うことによって、事実としての神の存在に気づく。いや、ただそうしてのみ気づくことが出来る。何故なら神は、認識の対象ではなく、信仰の対象なのであるから、信仰する者のみが神の存在を確信することが出来る。

キルケゴールの議論は、生成の概念を巡って、存在と必然性との相違を強調し、神は必然性の概念によっては捉えられないというわけであるが、では神と生成の概念とはどのような関係にあるか、ということについては、やや曖昧なままである。生成とは時間の中で起きるという意味で歴史的な出来事であり、したがって不確実な部分を多く含んでいるが、一方、神のほうは永遠の存在と考えられ、歴史的な出来事を超越した存在のはずである。したがって神が生成するというのは、神の永遠性を否定することにつながる。

この矛盾をキルケゴールは瞬間と言う中間概念をもちだすことで調停しようとする。永遠である神がこの世に現前する、それが瞬間である。だから瞬間とは、永遠の神と有限の人間との間を媒介する概念だということになる。キルケゴールはこの媒介と言う概念をヘーゲルの専売特許と受け取って毛嫌いしているのであるが、それをここで持ち出してくるのは、やや苦し紛れとも受け取れる。

ともあれ、瞬間のうちに永遠の神が有限の人間の前に現前する。その瞬間において、神は信仰する人間の前に生成したのである。いいかえれば、神は人間の目から見れば非存在から存在へと移行したのである。それはあくまでも人間の目から見た見方であって、神はそれ自身としては永遠に存在する者なのである。だがそれを理性で認識しようとしても無駄である。神の存在は認識できない。神の存在は確信できるのみである。そしてその確信をもたらすものは信仰の激情である。信仰しようとする人間は激情にかられるまま、信仰へ向かって決断するのである。繰り返し言うが、キルケゴールにとって信仰とは、認識の問題ではなく、意思と激情の問題なのである。




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