知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ドゥンス・スコトゥス


スコラ哲学を体系化したのはドミニク派の修道僧でもあったトマス・アクィナスであるが、ドミニク派と並んで勢力のあったフランチェスコ団は、さまざまな点でトマスの説と対立し、互いに論争しあっていた。フランチェスコ団に属する修道僧たちは、創設者アッシジのフランチェスコの衣鉢をついで、トマス・アクィナスとは一風変わった説を展開していた。それは簡単に言うと、トマスの主知主義に対して、実践や人間の意志をより強く押し出すというものであった。

ヨハンネス・ドゥンス・スコトゥス (1266?-1308) は、トマス・アクィナスが死んだ直後に思想的な活動を始めた人物である。そんな時代的な位置づけから、トマスに代表される盛期スコラ哲学を後代に繋いだ人とみなされているが、その説にはトマスと対立するところが多い。

スコットランドのドゥンスというところで生まれたからそう名付けられたのだとされる。一方ドゥンスという言葉には間抜けとか愚頓とかいう意味もあり、一種の蔑称としても用いられていたようだ。

ドゥンス・スコトゥスの新しさは、人間の意志の自由についての考え方にある。トマスに代表される正統なキリスト教義にあっては、意思は知性に従属するものであった。つまり主知主義の考えである。神でさえこの世界をイデアにのっとって作った後に、それを「良し」とされた、つまり知性によって作ったものを、意思によって確認したのである。「はじめにロゴスありき」という聖書の言葉は、この主知主義を宣言したものだとされた。

人間もまた同じである。そこにはキリストの教えを精神によってとらえる理性的な部分があり、それに導かれて人は神を信ずるようになる。そこには精神によって知ったものを、意思しないではおれないという、人間についてのとらえ方がある。

しかしドゥンス・スコトゥスは、人間には自由な意思があって、たとえ正しい事柄に接した場合でも、それを意思しない自由があるのだとした。主意主義の考え方である。人間の信仰は、こうした自由な意思によって選択されることで始めて意味をもつのだ、そう彼は考えたのである。一昔前なら異端と断罪されかねない考え方であった。

一方ドゥンス・スコトゥスは、人間の認識が神によって制約されていることをも認めていた。人間に自由な意思があるといっても、それは神が許したまう範囲ないでのことであり、神の制約を離れては何事もなしえない。

人間は自明なことを根拠にしてさまざまな活動をなしうる。自明な事柄には三種類あって、一つは自ずから知られる原理、二つ目は経験によって知られる事象、三つ目は我々自身の行為であるが、それらはいづれも、神による照明がなければ、我々のもとにもたらせられることがないのだという。

普遍の問題については、ドゥンス・スコトゥスは穏健な実念論者であった。彼は存在と本質との間に相違はないとすることで、トマスと表面上は一致していた。だが「個別化の原理」をめぐってはトマスとは異なった考えを持っていた。

同一の種に属する二つの個別的事物に関して、それを個別化させるものは、形相であるのかあるいは質量であるのか、この問題についてトマスは、物質的なものにおいては個別化させるものは質量であり、精神的なものにおいては形相であると考えていた。これに対してドゥンス・スコトゥスは、物的、精神的をとわず、何物かが相互に区別されるのは、何らかの質的な差異によるのであり、それはそこに形相の差異があるからなのだと主張した。

この点で、ドゥンス・スコトゥスは従来の実念論を超えたのだと思われる。従来の実念論にあっては、個別的な事象のほかに普遍的なものが存在し、個別の存在はこの第三の存在たる普遍を介して、人間の理性的な認識の対象となる。ドゥンス・スコトゥスによれば、その普遍的な存在者は、人間の知性を離れたところにではなく、人間の知性そのもののうちに存在するのである。

このようにドゥンス・スコトゥスは、普遍を人間の認識から独立したものとは考えず、人間の認識にとっての相関者として捕らえていた。その点がトマスらの実念論とは異なっており、オッカムの唯名論に近いものがある。

だが彼は、普遍の存在性に固執し、唯名論にはくみしなかった。彼にとって本質とは、あくまでも存在なのであり、それは個物を離れてではなく、個物の中に、またそれに対応するかたちで、人間の知性のうちにも存在するものなのであった。





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