知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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生に対する歴史の利害:ニーチェの歴史主義批判


「反時代的考察」の第二論文は「生に対する歴史の利害」と題しているが、むしろ「歴史に対する生の利害」と題したほうが相応しい。というのもニーチェがこの論文で展開したのは、生に対して歴史が抱く利害、すなわち歴史からみた生の意義ではなく、生から見た歴史の意義、すなわち歴史に対して生が抱く利害についてだからである。これをニーチェは、次のように端的に定式化している。

「われわれが歴史を必要とするのは、生と行動のためであって、生と行動から安易に背を向けたり、いわんや利己的な生を美化したり、卑怯な悪い行動を粉飾したりするためでは断じてない」(「生に対する歴史の利害について」秋山英夫訳、以下同じ)

こういうことでニーチェは、歴史が我々にとって必要なことを認めるのであるが、それが認めるに値するのは生と行動に寄与する限りであるともいっている。ということは、生と行動に寄与しない歴史もある、というよりもそのような歴史が横行している、そうニーチェは言っているわけなのである。すなわち、歴史とは本来われわれの生と行動とを充実させるためにのみあるはずなのに、実際には我々の生と行動とを萎縮させている。そういった問題意識があるからこそ、歴史と生とをあえて対立させるような問題設定をしたのだろうと思われる。

歴史と生とは何故、対立しがちになるのだろうか。この問いに対してニーチェは、歴史がみずからのうちから規範的なものを生み出し、過去を以て現在を縛るからだと言っている。ニーチェは歴史を、「記念碑的、骨董的、批判的」の三つの様態にわけ、それぞれについて、それらが現在に生きる人間にとって持つ影響力のようなものを分析しているが、どの様態においても、歴史的なものが過剰になって現在を呑みこもうとすると、現在を生きている人間の生と行動とが阻害されるようになる、と主張する。

「歴史の過剰によって・・・①人格は弱められ、②(大袈裟な)空想に陥り、③国民の本能は阻害せられ、④人類の老齢への信仰が植え付けられ、⑤生の活力は萎えしめられ、ついには破壊される」(同上から抜粋)

こうした立場は、一見過激な歴史否定のように映る。否定という言葉が大袈裟ならば批判と言ってもよい。ニーチェはこの論文で、ある種の歴史主義批判を行っていると考えられるのである。歴史主義といって歴史といわないのは、歴史そのものを否定するのではなく、歴史を祭り上げて、すべての価値の源泉とするような態度を否定しているからである。

ニーチェがここで歴史主義の体現者として意識しているのがヘーゲルであることは間違いない。ヘーゲルはいうまでもなく徹底した合理主義的観念論者だったわけだが、歴史というものを合理的な観念の実現過程であり、世界史とは絶対知が外的な姿を取ってあらわれた姿なのだと考えた。だからヘーゲルにとっては歴史全体の歩みが問題なのであって、その歴史を生きる個々の人間は付属物のようなものでしかない。ましてや現在を生きている人間の生とか行動とかは、歴史の一齣として問題にされるだけであって、それ自体として問題となることはない。個人は歴史に、個別的存在は普遍的概念に吸収されてしまうのだ。

「およそこの哲学、すなわちヘーゲル哲学の、今にいたるまで滔々と流れ続けている巨大な影響によって、いっそう危険の度を加えなかったようなものはなかったと、私は信じている。まことに、麻痺的で変調的であるのは、もろもろの時代の末裔であるという信念である。それが怖るべくかつ破壊的にあらわれざるをえなくなるのは、このような信念がある日ずぶとく居直って、末裔たることをすべて既往の出来事の真の意義ならびに目的として神化し、末成りであることを自ら知っている末裔のみじめさが、世界史の完成と同格視される場合なのだ。こういう見方が、"世界過程"を論じたり、自己の時代をもってこの世界過程の必然的結果として正当化する癖をドイツ人につけたのである。こういう見方が、歴史こそ"自己自身を現実化してゆく概念"であり、"民俗精神の弁証法"であり、"世界審判"であるとかいって、別種の精神的威力である芸術及び宗教にとってかわって、歴史を唯一の主権の座に据えたのである・・・このヘーゲル的に理解せられた歴史を、人々はあざけって神の地上における散歩と呼んだが、その神はまた神で歴史によってはじめて作られるのである」(同上)

こうしたヘーゲルの見方に対してニーチェは、歴史をそれ自体としてではなく、あくまでも個々の人間にとって持つ意義に着目して取り上げる。歴史が問題となるのは、個々の人間の生と行動との関連のうちにであって、歴史そのものの内在的な意義などナンセンスそのものなのだ。

このように歴史を個人との関連において相対化させる立場はキルケゴールの立場と似たところがある。キルケゴールもまた、歴史的な事件としてのキリストの死と再生とを論じながら、その歴史性を強調して、歴史的存在としてのキリストとのつながりを強調する既存のキリスト教会のあり方を厳しく批判した。キリストの死と再生はたしかに歴史的出来事ではあったが、我々がキリストとつながるのは、歴史を通じてではない。我々は歴史的な時間のうちにではなく、永遠という非歴史的な瞬間においてキリストとつながる。すなわち我々とキリストとの関係は歴史を超越した永遠の関係なのだ、そうキルケゴールは言って、キリスト教における歴史的なものの強調、つまり歴史主義に反対したわけである。

だがキルケゴールとニーチェとの共通点はそこまでで、そこから先は、二人の立場は大いに異なってくる。キルケゴールは歴史を超越した永遠の相の下に、個人と神との直接的なつながりを求めたのに対して、ニーチェはそもそも神の存在を否定するのである。同じく反歴史主義、反合理主義とはいっても、一方は宗教に根差し、一方は宗教に敵対するわけである。

さて歴史の過剰を否定したその先には何があるのか。歴史を否定するというのは過去を否定するというのと同じことだ。過去を否定するもっとも簡単な方法は、過去を忘れるということであろう。そこから次のような言葉が出てくる。

「最小の幸福においても、最大の幸福においても、常に幸福が幸福たる所以のものは一つである。すなわち忘れうるということ、あるいはもっと学者らしい言葉遣いで言えば、ある継続のあいだ非歴史的に感ずる能力、これなのだ・・・われわれは、ある程度非歴史的に感じ得る能力を、より重要でより根源的な能力であると見なければならないであろう」(同上)

過去のことをすべて忘れて現在の瞬間に生きる、今現在生きている瞬間においても、ものごとを非歴史的に考える、これがニーチェがいうところの非歴史的に感じる能力である。人間というものは歴史的に感じるからこそ余計なしがらみに縛られ、いま生きている生を生き生きと生きることができなくなっている。しかもほかならぬ自分が自分を息苦しくしているのだ。そうした息苦しさから脱して、生き生きとして生を生きるためには、歴史的に感じることをやめる必要が是非ある。これは反歴史的あり方の消極的な側面だが、積極的に反歴史的になるあり方もある。それは超歴史的という言葉であらわされるものだ。

「歴史的なものにきく薬の名前は~非歴史的なものと超歴史的なものというのだ・・・"非歴史的なもの"という言葉で私があらわしているのは、忘却することが出来て、制限された視界のうちに閉じこもることができる技と力のことである。"超歴史的"と私が名づけるのは、目を生成から転ぜしめ、存在に永遠にして不変の意味をもつという性格を与えるところのもの、すなわち芸術と宗教へ向かわしめるもろもろの威力を指していうのである」(同上)

非歴史的なものは忘却ということばと結びついているが、超歴史的なものは今現在を永遠の相の下にとらえることだと言い換えてもよいようだ。そしてニーチェはそのようなあり方をあらわすものとして芸術と宗教をあげている。芸術はなんとなくわかるが、何故宗教が出てくるのか、よくわからない。いずれ宗教はニーチェの視野から消え去るわけであるが、この時点ではまだ、ニーチェは宗教の呪縛から自由ではなかったようだ。




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