知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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西田幾多郎の純粋経験:「善の研究」を読む


西田幾多郎は「善の研究」の序文の中で、「純粋経験を唯一の実在にしてすべてを説明してみたい」と述べている。ではその「純粋経験」なるものとは何か、が問題となるわけだが、それについて西田は、本文の冒頭近くでこう書いている。「純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なるものである」

この短い文章の中にも、直接経験とか自己の意識状態とか、直下に経験とか、未だ主もなく客もないとか、最醇な経験とか言う言葉が出てくるが、とりあえずはそれらの言葉についての説明は何もないし、また、純粋経験なる概念をなぜ西田が注目するに至ったかについての説明もないので、ほとんどの読者は面食らうところだろう。哲学というものは、少なくとも西洋哲学の伝統の上では、あるアイデアを語るに際しては、根拠を明確にし、その上に立って、ひとつひとつ進んでいくというのが常套のやり方だ。ところが西田の場合には、明確な根拠を示さずに、純粋経験についての定義をいきなり持ち出している。しかも中身がきわめて不明瞭なままで。このように感じるのは、筆者のみではあるまい。

こうした疑問に西田は、第二編の最初の方の部分で答えようとはしている。これは西田の方法序説とも言うべきもので、西田が自分の思想の出発点としての純粋経験の概念にどのようにたどり着いたか、またその概念がなぜ哲学の出発点、西田の言葉で言えば、そこからすべてが始まる唯一の実在でありうるのか、について述べた部分である。

西田はデカルトのひそみに倣って、すべてを疑うことから始め、究極的に疑い得ない確実なこととは何か、と問いかける。デカルトの場合には、疑うということを考えるということと同一視した上で、すべての事柄を疑っているその自分の存在は疑い得ないと結論した。なぜなら疑う主体がなければ、疑うという事態も生じないだろうから。かくてデカルトの場合には、考える主体としての自己が、哲学の揺るがしがたい前提となったわけである。ところが西田は、そこからさらに先へと進む。デカルトの言う自己とは、反省の結果摘出されてきた概念に過ぎない。自己は考える主体であるが、主体があるということは客体があることを前提にしている。ところが主体も客体も、反省の結果出てくる概念である。実際にデカルトは、自分の「考える我」を、反省の結果獲得したものと言っているわけであるから、西田の言い分にも一理ある。西田にとっては、反省によって媒介されたものは、直接的なものではなく、したがって究極の前提とはなりえない。究極の前提は、反省が加わる以前の生の現実でなければならない、そう西田は考えるのである。

では、その生の現実とはどのようなものか。西田はそれを、「我々の意識現象即ち直接経験の事実」だという。意識現象の中には当然反省も含まれるわけだから、これだけでは反省以前の直接的(生の)事実だとはいわれないという批判も成り立ちうるだろう。しかし西田はその点には意外と無頓着で、こう言うことで、反省以前の生の現実が定義できたつもりでいるようだ。そのつもりを忖度して、筆者なりに解釈すれば、西田の「直接経験の事実」とは、反省が加わる以前の、すなわち主客に分かれる以前の、混沌とした統一状態にある意識現象だと考えることができるのではないか。

西田によれば、まず主観というものがあって、それが客観と出会うところに知識が成立するのではない。主観といい客観といい、いずれも思惟による反省の結果生まれてくるのであって、言ってみれば、経験から生まれてくる者である。すなわち経験の産物である。これを西田は、「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と表現している。

こうした物言いは非常に逆説的に聞こえるが、西田の同時代にあっては、必ずしも奇異な考え方ではなかった。それは前稿で簡単に触れたとおりである。西田のこのような態度は、二元論の克服という面を持っているが、この二元論の克服という問題意識は、当時の哲学界の共通課題であった。フッサールの現象学をも含めた新カント派も、ベルグソンらの直感主義的な立場も、いづれも二元論を克服して、主客未分の現象そのものからすべてを説明しきろうとする一元論的な思惑を持っていた。これを、筆者は現象一元論という言葉で括りたいと思う。

このように西田の思想は、当時の現象一元論の流れの一つの変形だと位置づけることができるのであるが、それのみにとどまらないユニークな面ももっている。そのユニークな面が西田哲学を、世界の哲学史上独特のものにしているのである。

新カント派にしろ直感主義にしろ、意識の直接的な与件から出発する点は、西田と共通している。彼らも西田も、その与件を反省が加わる以前の生の事実として捉えており、主観とか客観とかいうものは、この生の事実に反省を加えた結果もたらされるものだとする点は同じである。ところが、その先がだいぶ違う。新カント派も直感主義者も、反省の主体、あるいは意識の当事者としての主体というものを厳然とした存在として前提し、その主体が意識の与件としてあらわれる生の事実を加工して、概念的な認識を行っているという立場に立っている。一元論といっても、意識の予見に関する一元論であって、主客の対立のその手前に意識の主体を前提にしている限り、一元論としては徹底していないわけである。ところが西田は、そこのところが徹底している。

西田にとって純粋経験としてあらわれる意識の与件は、意識の主体が加工すべき材料などではない。材料どころかそれは、意識の主体としての自己がそこから生まれ育ってくる母胎なのだ。先ほど引用した「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」という言葉はそのことを意味している。

西田にとって意識の与件とは、(「意識現象」という言葉は使っているが)単なる現象ではなくて、実在なのだ。別のところでわざわざ「直接経験の事実」という言葉を使っているのは、この、実在であることを強調するためなのだ。実在であればこそそれは、生身の人間である個人を生み出すこともできるのである。実在でなくして何が、もうひとつ別の実在(個人)を生み育てるなどということができようか、というわけである。

これで、「善の研究」の序文にあった「純粋経験を唯一の実在にしてすべてを説明してみたい」という言葉が明瞭な姿をあらわしてくる。意識の与件としての純粋経験は、単なる現象ではなく実在であった。実在であるから、それはみずからさまざまな働きをすることができる。分裂して多となることもできるし、その多がまた統一されて一となることもある。要するに発展の契機を含んでいる。それは自分で発展してさまざまな形を生み出す力を持っているのだ。この実在の発展を、西田学者の上田閑照は(西田自身の言葉を使って)「自発自展」と言っているが、けだし言い得て妙である。

ここまで読んできた読者は、西田の純粋経験がただの経験にとどまらない、壮大な思惑を含んだ言葉だということに、思い当たったことと思う。実際、西田の純粋経験をめぐる議論は、単なる認識論を超えて存在論となっている。しかもその存在を人間の意識から根拠づけようとする。しかも、その意識は個人の意識の内部に閉じ込められているようなケチなものではない。それは人類全体は愚か、世界全体をその内部に含んでいるような、壮大なものなのだ。西田はそれを、最後には神と名づけるのだが、その内実の詳細については、今はまだ論じる時点ではない。




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