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論理の理解と数理の理解:西田幾多郎の数学論


西田幾多郎の小論「論理の理解と数理の理解」(「思索と体験」所収)は、論理学的思考と数学的思考との関係についての、西田なりの考えを述べたものである。西田は、そもそも数学者になるか哲学者になるかについて、選択に迷ったほど数学に興味を抱いていたようなので、それについて突っ込んで考えて見たいという動機もあって、こんなものを書いたのかもしれないが、それ以上に、論理学と数学との関係をどのように考えるかは、哲学にとって重い課題でありつづけた。だから哲学者がこれを取り上げるのは、ごく自然なことなのである。

デカルト以降の近代哲学は、論理学と数学とをおおむね同じようなものと考えてきた。それを、まったく違う原理の上に立つものと考え直したのはカントである。カントは、人間の判断を分析的判断と総合的判断とに分類した上で、論理学が分析的判断を基にしているのに対して、数学は総合的判断のうえに成り立っているとした。分析的判断とは、同語反復のようなものであり、人間の知識になんら新しいものを加えない。徹底して形式的な判断である。これに対して、総合的判断とは、経験にもとづいて人間に新しい知識を与える。数学は、この総合的な判断による学問だと、カントは言うわけなのである。

カントがこのように考えた背景には、アプリオリな総合判断は可能か、という彼の問題意識があったわけだが、ここではその詳細には触れない。ただ、数学がアプリオリな総合判断の例だと指摘することによって、彼の批判哲学の基礎付けに成功したということを確認しておけばよい。

ところが20世紀に入って、ラッセルらの分析哲学者や数学者のあいだから、数学の命題は分析的なものだとする意見が強く出されてきた。つまり数学と論理学とは、どちらも同じ原理の上に立っているのだと言われるようになってきた。それに対しては、新カント派の哲学者リッケルトやポアンカレのような数学者は、数学と論理学とは、やはり異なった原理の上に立っていると主張し続けた。西田のこの小論には、こうした哲学史上の問題状況に応えるという側面もあったのである。

結論を先に言うと、西田は論理的思考と数学的思考は同じ原理の上に立っていると考える。だがその理由を、この両者を共通のものとするラッセルらの理屈ではなく、異なったものとするリッケルトらの理屈を引用しながら開示するというやり方をとっている。したがって、数学も論理学も分析判断をもとにしたものだというような結論にはなっていない。西田一流のユニークな理屈が、そこでは展開されるというわけなのである。

リッケルトの理屈は次のようなものである。論理的思考も数学的思考も「一」の概念を基礎としている。「一」は論理学にあっては主題ということになり、数学においては数の基本ということになる。このことからわかるように、同じ「一」でもその意味合いは異なっている。論理学の主題が、「他」の主題と交換不能なのに対して、数学の「一」は交換可能である。というより、交換可能な無色の数字でなければ数学は成り立たないのだ。交換可能であってこそ、「1+1=2」が成立し、そこから数学の体系が構築できるのである(これに対して論理学では、「<1>+<1>」がかならずしも<2>にならない、<1>に色がついているからだ)。したがって、論理学と数学とは、異なった原理の上に立っているといわねばならない、というのがリッケルトの理屈なのである。

リッケルトの理屈をこう押さえた上で、西田は口を挟むわけなのだ。西田は、論理的思考も数学的思考も、人間の思考という点では同じだという。しかして、論理的思考の特徴は、特殊を一般に包摂する作用だといえるが、それは言い換えれば一般が自己限定して特殊となることを意味している。すなわち、論理的一般者が思考の出発点となる。一方、数学においては、この論理的一般者にあたるものが数字の基本である「一」である。この一が系列として展開していくことによって、数の体系が生み出される。つまり、論理的思考にあっても、数学的思考にあっても、論理的一般者が展開することで成立するのだと考えることができる。「論理の理解も数理の理解も・・・論理的一般者の発展の作用として解することができるのである」(同上小論)

この、一般と特殊をめぐる西田の考え方は、かなり特殊だといわねばならない。それでも、論理的な分野においては、特殊なりに一つの見方だと評価できないわけでもない。ところがこれを数学に当てはめると、どうも具合の良くないところが目立つようだ。数学というのは数の系列を対象とするものであって、一般と特殊の関係を扱うものではない。そこに西田は、数学も論理学も人間の思考の産物という点では同じだ、というような粗野な理屈で、両者を一緒くたにしようとしている、どうもそんな印象を与える。

ところで、話題がずれるかもしれないが、数学を総合判断の体系だとしたカントの議論は、21世紀の今日では、ほぼ否定されたようだ。カントは、1+1は必ずしも2にならねばならぬ理由がないことを根拠にして、これを総合判断だといったわけだが、数学というものは、1+1が2になるということを一種の約束事にして成り立っているのである。約束事に基づく学問だから、それは論理学と同じように、分析的にならざるを得ない。分析的という言葉は、ゲームの規則(約束事)によって考えるということと同じ内容を意味しているのである。




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