知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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西田幾多郎の叡知的世界


西田幾多郎の「叡知的世界」は、カントの「叡智界(ヌーメノン)」を想起させるが、両者は似て非なるものである。では、どこが似ていて、どこが違うのか、ここではそれを見ておきたいと思う。まず、叡智的世界について西田自身が語っている部分を、論文「叡智的世界」から引用しよう。

「判断的知識が一般者の自己限定であるとするならば、我々が何物かを考えるには、一般者が自己の中に自己自身を限定するということがなければならぬ。私は一般者に三種の段階を区別することによって、三種の世界という如きものが考えられると思う。判断的一般者に於いてあり、これにおいて限定せられるものが、広義に於いて自然界と考えることができ、判断的一般者を包む一般者、即ち判断的一般者の述語面の底に超越するものを含む一般者(即ち自覚的一般者)に於いてあり、これに於いて限定せられるものを意識界と考えることができる。更にかかる一般者を包む一般者、即ち我々の意識的自己の底に超越するものを包む一般者に於いてあり、これに於いて限定せられるものが叡智的世界と考えられるものである」(「叡智的世界」冒頭部分)

例によって、西田特有のターミノロジーで書かれているので、それに馴染みの薄い読者にはきわめてわかりづらいと思うが、ここで言っていることの要点は二つある。一つは一般者の自己限定ということである。一般者というのは個物に対立するものであり、基本的には論理学の用語である。普通の論理学にあっては、個物を一般者が包摂するという風に捉えるのだが、西田の場合には見方を逆転させて、一般者が自己限定して個物になるという風に考える。しかして、論理学がこの両者の関係を、あくまでも論理的な関係だと割り切るのに対して、西田の場合には、それを実在的な関係としても考える。一般者は単に論理的な操作概念にはとどまらない。それは客観的なイデアのようなものとして実在する。その実在する一般者が自己を限定することによって個物が生じる、というふうに考えるわけである。

もう一つは、一般者に三つの段階があるということである。西田にとって一般者とは場所として捉えられていた。場所とはすべてのものがそこに於いてあるものである。すべての存在は場所に於いてあり、かつ生成する。これを言い換えれば、場所としての一般者が自己を限定して個物を生じるということになる。しかして、この場所としての一般者には三つの側面があって、それが判断的一般者、自覚的一般者、叡智的一般者である。判断的一般者が自己限定することによって自然界が生成し、自覚的一般者が自己限定することによって意識界が生成し、叡智的一般者が自己限定して叡智的世界が生成する、というふうに西田は考えるのである。

この三つの一般者は包摂関係にあるとされる。判断的一般者は自覚的一般者に包摂され、自覚的一般者は叡智的一般者に包摂される。ということは、叡智的一般者は、自然界や意識界をも包摂した、もっとも包括的で究極的な一般者であるわけである。したがって、叡智的一般者が自己限定することによって生成する叡智的世界は、最高レベルのイデアがそのまま現実になったような世界だと、とりあえずは考えてよさそうである。

ここらあたりで、西田とカントの比較に入ろう。カントは、西田のように一般者が自己限定することで個物が生じるなどとは考えなかった。カントに於いては、個物のほうは対象として客観の側にあり、一般者は人間の認識能力に備わった範疇として主観の側にあった。人間の認識は、客観的な現象を主観的な認識枠組みによってあてはまめることによって成立する。そのようなカントの立場を西田は構成説と呼んでいるが、これはあくまでも人間の認識作用に着目した操作的な概念装置である。操作的という点では、客観としての現象もそうである。現象の背後にはそれをひきおこす物自体の存在が想定できないわけではないが、それは我々の認識によって直接に把握できるものではない。我々の認識が把握できるのは、あくまでも現象としての意識の所与に限られる。

カントは、イデアもこの物自体のようなものだと考えた。それは、人間の行動に指針という形で働くことはあるが、それ自体が客観的な存在として認識できるわけではない。カントは神の概念や宇宙の起源などを、こうしたイデア的なものの代表だとしたわけだが、それらはたしかに人間の行動に影響を及ぼすが、しかしその存在を人間が直接認識することはできない。神の姿は我々の直感を超越しているとされるのである。宇宙の起源の姿も我々の直感能力の及ぶところではない。

カントはこうしたイデアからなる世界を叡智界(ヌーメノン)と呼び、それが人間に対して規範的に働くことは認めたが、その実在性は否定した。実在するのは現象的世界(フェノメノン)だけなのだ。

ところが西田の場合には、自然界や意識界が実在するのと同じような意味合いに於いて、叡智的世界も実在すると考える。ではその叡智的世界とはどのようなもので、我々人間はそれをどのようにして知ることができるのだろうか。

この疑問に西田はあまりうまく答えられていない、というのが論文「叡智的世界」を読んでの印象である。議論を進めるために西田は、フッサールの「ノエシス~ノエマ」のシェーマを援用して、人間の認識に事寄せて説明しようとしている。そこで西田が取り上げるのは、知的直感の能力だ。西田によれば知的直感はイデアのような高度な対象を捉えることのできる能力である。判断が対象的世界を、自覚が自己意識を捉えるのに対して、知的直感はイデアのような高度の知的対象を捉えることができる(そこはカントとは基本的に違う考えだ)。その知的直感の志向作用面をノエシスとすれば、その志向先としてのノエマが考えられる。知的直感のノエシスが志向するあるもの(ノエマ)、それが叡智的世界なのだ、と西田は言うのだが、どうも苦し紛れのような感がしないでもない。

知的直感の代表例として西田は、芸術的なインスピレーションを上げているが、これもよくわからない。何故芸術的なインスピレーションが叡智的世界を知ることにつながるのか。第一、芸術は叡智の典型といえるのか。西田は芸術の次に宗教を持ち出しているが、むしろこちらのほうが深い叡智を感じさせる。だが西田はそれについてちらりと言及するだけで、掘り下げているわけではない。

ひとつ興味深いのは、西田が叡智的一般者を社会的な意識と関連付けていることだ。上記の引用部分に続いて西田は、「叡智的世界という如きものは、我々の思惟を超越したものでなければならない」と言い、意識の「ノエシス的方向に一つの共同的意思というものが考えられ、いわゆる社会的意識というものが成立する」と言っている。

個人的な意識を超越した社会的な意識なら、もっと広い展望に立って、人間のあり方について腑分けすることもできたであろうし、そこにおけるイデア的なものの意義も展開して見せることができたかもしれない。しかし西田の社会的意識への言及は、どうも思いつきの域を出ていないらしく、これ以上展開されていない。

以上のような次第だから、西田の叡智的世界は、カントの叡智界とは似て非なるものだと言ったわけなのである。




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