知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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西田幾多郎の隠喩的思考:連想ゲームとしての哲学


先稿「述語論理」の中で、西田幾多郎の思考方法の特徴として「述語論理」というものを挙げた。筆者はこれを、中村雄一郎の議論を参照しながら、述語の共通性にもとづいて二つのものを結びつける論理であるといった。たとえば、次のようなケースがそれにあたる。

  私は処女です
  聖母マリアは処女です
  私は聖母マリアです

これは、私と聖母マリアとがいずれも処女という属性を述語として持っていることから、私は聖母マリアです、という結論をストレートに導き出すやり方である。これは一聞して奇妙な理屈、つまり屁理屈のように聞こえるが、決してありえない理屈ではない。というより、我々が日常的に使っている理屈である。比喩という形において。

比喩と言うのは、あるものXを別のものYに喩えることをさしていう。この喩え方に、大きく二つのやり方がある。ひとつは、「XはYのように美しいと」いうような場合である。これはX、Y両者が美しさと言う属性を共有することで成り立っていることが明示されていることから直喩と呼ばれる。一方で、「XはYである」というような比喩の仕方がある。これは、共通の属性を表に出さないで、XとYをむすびつけていることから、隠喩と呼ばれる。

シェイクスピアは隠喩の名人と言われているが、「ロメオとジュリエット」からその一例を紹介しておこう。ロメオの友人がロメオに向かって、二人の娘に言及する場面があるが、そのさいその友人は、「ジュリエットは白鳥、ロザラインは烏だ」と言っている。こう言うことでこの友人は、ジュリエットが白鳥に変身したとか、ロザラインが烏の仲間だといっているわけではない。彼が言いたいのは、ジュリエットは白鳥のように美しく、それに比べればロザラインは烏のようの醜いということである。そのようにいえば直喩になるところ、この友人はちょっと気取って隠喩を用いたわけである。この例からわかるように、隠喩というのは、ひねった比喩の仕方なのである。それは論理よりも情緒を重んじるという点で、文学的あるいは感性的な表現といえる。

比喩が成り立つのは、比較される二つのものが、共通する属性で結びついているからである。XとYとは両者とも美しいことが前提となるかぎりにおいて、XはYのように美しい(直喩)とかXはYである(隠喩)、というような言い方が成り立つわけである。だから共通する属性を持たないもの、たとえば白鳥と烏のあいだには比喩は成り立ちにくい。われわれは「白鳥はカラスのように美しい」とはなかなか言わないし、まして「白鳥は烏である」などとは決して言わない。

ところが世の中には、凡人が決して言わないこと、思いつかないことを、言ったり思いついたりする人がいる。西田幾多郎などは、とりあえずその顕著な例といえるのではないか。西田はあるものXと別のものYとを、両者に共通する属性を手がかりにして、自由に結びつける傾向が非常に強い。それを筆者は述語論理といったわけだが、それはまた隠喩的思考と言い換えることができる。どちらも、あるもの(主語)の述語である属性と別のあるものの属性との間に存在する共通点を媒介にして両者を結び付ける点で一致している。

西田の思考がわかりにくいのは、文学的な表現方法である隠喩を、論理的な表現の代替物として用いることに起因している。しかし、文学的表現は決して論理的表現の代替物にはなりえない。論理的表現の命は、論理の正確性・厳密性にあるが、文学的表現にあっては、正確性・厳密性は問題にならないか、あるいはマイナスな効果をもたらすものとして退けられるべきだとされるのが普通だ。ところが西田は、述語論理という形で隠喩を頻繁に用いる。そうすることで、論理の正確性・厳密性を損なう結果となっている。西田の思考がきわめて難解なのは、彼の思考が論理性を軽んじていることから来ているのである。

人間同士のコミュニケーションには、論理を通じてのものと、感性を通じてのものとのふたつの回路があるが、哲学を始めとした論理的なコミュニケーションは論理を通じてなされるのでなければ、十全なコミュニケーションは図れない。感性が問題になるのは文学や芸術の分野においてであって、哲学や科学の分野では、感性的表現は曖昧さの原因になるだけで、混乱をもたらすばかりなのである。

ここで、西田幾多郎の隠喩的思考の一例を紹介しておこう。参照するテクストは論文「叡知的世界」から。この論文の中で西田は、我々人間の通常の意識的自己がどのようにして叡知的自己へと発展し、その叡知的自己からどのようにして宗教的世界が現出してくるかを述べているのであるが、通常の意識的自己から叡知的自己への切り替えも、叡知的自己からの宗教的世界の現出も、論理によってではなく、隠喩を用いて説明している。

通常の意識的自己も叡知的自己も自己である限りにおいて、フッサールのいわゆるノエシスとして、その志向先たるノエマを持っている。ノエマとは、意識的自己・叡知的自己それぞれの対象界のことであるとされる。意識的自己の対象界は自然的世界であり、叡知的自己の対象界はイデアということになる。しかしてイデアからなる世界は、叡知的自己の対象界として叡知的世界とも言うことができる。その叡知的世界の主催者こそが神なのだ、という具合に西田の思考は展開していく。

このように西田の議論は、ある概念と別の概念とを、両者に共通する属性によって結びつけたうえで、更に、二つの概念の間に生じる対比関係や類似性をもとにして、つぎつぎと連想を働かせていくというような構図になっている。この連想は、基本的には隠喩を基礎とし、比例や類似によって補強される。こうした連想による思考の羽ばたき、それが西田の独特な哲学を構成している、と言えなくもない。だから西田の哲学は一種の連想ゲームだといってよいような面がある。

ここでテクストにもどれば、まず、意識的自己から叡知的自己への転化は次のように説明される。

「我々が意識的自己の底に超越して叡知的自己に至るということは、所謂内部知覚の意識界を超えて、超越的対象を自己のうちに包むことであり、自己がただちに客観的なるものをなるものを意識することであるから、主客合一と考えられるのである」(西田「叡知的世界」以下同じ)

西田一流のわかりにくい文章に戸惑うかもしれないが、要するにここで言われていることは、意識的自己と叡知的自己とは主客合一という共通の属性によって結びついているということである。主客合一を通じて、意識的自己と叡知的自己とが隠喩的な結びつきをしているわけである。ついで、この文章に出てくる「自己の底に超越」という言葉については、次のように言及される。

「自己が自己の底に自己を超越するということは、自己が自由になることである。自由意志とは客観的なるものを自己の中に包むことである」(同上)

これは超越とは自由だということを言っているのであるが、何故超越が自由と結びつくのか。そのことについて西田は明示していない。おそらく、超越と言うのは束縛から逃れるということであるという西田なりの思い込みがそこにあるのだろうと思われる。束縛から逃れているということは、言い換えれば自由だということである。それ故、超越と自由とが、束縛から逃れているという属性を通じて結びつくわけである。また、以下のような言説も出てくる。

「神とは意識一般と同様の意味において、叡知的世界の超越的主観である」(同上)

これは神と意識とを、超越的主観と言う媒介項を通じて結び付けているところといえる。超越的主観とは意識一般のことであるが、その意識一般としての超越的主観が、その対象として自然的世界を持つように、神もまた超越的主観として神固有の対象世界、すなわち叡知的世界を持つと言っているわけである。




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