知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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西田幾多郎と禅


西田幾多郎が若年の頃禅に集中していたことはよく知られている。彼は明治三十一年(二十八歳)から約十年間にわたって、それこそ座禅三昧の毎日を過ごした。この時期の西田の日記に眼を通すと、来る日も来る日も座禅の記事が出てくる。とにかく一日中座禅をしている。そして節目ごとに参禅して、禅師と語り合っている。その結果西田は、禅的世界観というようなものを体得したに違いない。違いないというのは、西田自身が、自分の禅体験を正面から語ったことがないからである。その点は、禅について多くを語った親友の鈴木大拙とは違うところだ。

西田の哲学的処女作と言ってよい「善の研究」は、こうした座禅三昧の十年間を潜り抜けて書き上げたものだが、そこには禅についての言及は全くといってよいほどない。それにはそれなりの理由があるのだろうと西田学者たちは詮索してきた。哲学というものは、物事を説明することを使命としているが、禅というものはほかならぬその「説明」と言うことを忌避する。禅は自ら体験するもので、他者に対して説明するものではない。説明できるようなものは、禅とは無縁のものだ。禅は説明できないことを体験することなのだ。

こういうわけだから、説明できぬ事柄を、説明をこととする哲学の場で取り上げることは、相応しくない、そう西田は考えて禅への表立っての言及を避けたのではないか。しかしそれは表立ってのことで、裏側に回ってみれば、「善の研究」には西田の禅体験が生かされているに違いない。西田学者の多くがそのように受け止めているようだ。

そこで、西田がどのような形で自らの禅体験を哲学の中に生かしているか、それが興味の的となる。筆者は禅についてはほとんど門外漢といってよく、そんな立場で西田の禅体験を云々するのは気が引けるのであるが、観察が表面的にわたるということを認めた上で、筆者なりの所見を述べてみたい。

西田幾多郎における、禅体験の哲学への影響の痕を、筆者は二つ取り上げたい。一つは西田哲学の初期のキーワードとなった純粋経験、もう一つは筆者が隠喩的思考と名づけた西田独特の思考法である。

西田幾多郎の純粋経験の概念が、弧絶したガラパゴス的な概念ではなく、同時代の哲学者たちと問題意識を共有した、いわなアップデートな概念であったということはこれまで述べてきたとおりである。それは、ウィリアム・ジェームズの純粋経験の概念やアンリ・ベルグソンの直観の概念と共通する部分が多い。だが、全面的に同じかというとそうではない。というより、異なっているところのほうは多い。その相違をもたらしているのが、西田における禅の要素なのではないか、そう筆者は考えている。

ジェームズやベルグソンにあっては、純粋経験とか直観とかいうものは、たしかに人間の認識の第一次的素材であり、すべての経験がそこから始まる端緒のような位置づけのものだが、それはあくまでも素材であり端緒である限りにおいて、無限定であり、したがって内容的には貧しいものとされていた。この貧しい内容である純粋経験や直観をもとに、人間の認識がそれをさまざまに料理することで、それは始めて豊かなものへと高まっていく。そんなふうな位置づけに留まっている。

ところが西田の純粋経験は、そのような貧しいものではない。貧しいどころか、すべての存在の母胎とでもいうような、非常に豊かな内容を含んだものとしての位置づけである。それはジェームズやベルグソンのように、人間の認識作用に対して、いわば外部から働きかけてくる対象的な存在なのではなく、それ自身が自発的に展開して、そこから世界を生成させるような豊穣なものなのだ。それは認識の素材なのではなく、それ自身が世界を生み出していく主体的な存在として捉えられている。

直観とか経験とかに関するこういう捉え方は、西洋の伝統的な思考の枠組からはなかなか出てこない。それはやはり、東洋的なものの見方が反映した捉え方なのだろう。そしてその東洋的なものの見方と言うのが、禅体験を貫いているものなのだ、ということなのではないか。

純粋経験を西田は、「現に色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない現前」というふうにいっているが、この「現前」においては、世界の実相が一気に瞬間的・全体的に現れる。それは一種の統一体として現れ、その統一体を分化することで、我々の認識が深まり、世界が分節化され、明瞭さを増していく、というような機制になっている。この世界が一瞬にして全体としてあらわれるというような発想は、西洋哲学の伝統にはない。そのようなものがもしあるとすれば、それは宗教的な啓示のようなものとして捉えられるだろう。それ故、西田のこうした考え方は、西洋哲学の立場からは、宗教的な啓示のようなものとして見えるに違いないのだ。

西田のこうしたとらえ方は、ある面で論理を超越したところがある。そうした超論理性は、西田の思考の特徴である隠喩的思考にも現れている。隠喩的思考とは、XとYとを、両者に共通する属性を通じて結びつけるもので、主語の論理に対する述語の論理ということもできる。通常の論理では、主語を中心にして思考を進めて行くわけだが、述語の論理にあっては、述語を中心にして思考が流れて行く。流れて行くというのは、主語の論理のように論理の積み上げによって対象界が重層的に深さを増していくのではなく、比喩によって対象界が横に広がっていくということだからだ

述語の論理も、論理の一つであると言えなくもないが、主語の論理のように、正確性や厳密性を期待することはできない。それは、世界を感性的・芸術的・宗教的に捉えるには相応しいが、形式論理的に厳密な議論を展開するには向いていない。

ところが西田は、この述語論理に基づく思考を展開するので、彼の文章は非常にわかりにくい。わかりにくいのには理由がある。禅が説明を拒むように、述語論理も説明を超えたところを含んでいる。それは物事についての形式的論理な説明ではなく、物事相互の隠喩的な関係を重視するものなのだ。隠喩は説明をこととはしない。それがこととするのは、単に提示することだけだ。




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