知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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逆対応と平常底:西田幾多郎晩年の宗教論


西田幾多郎の最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」は、その題名から連想されるように、宗教を場所の論理から改めて基礎づけようとしたものである。そこでキーワードとなるものは、「逆対応」という言葉と「平常底」という言葉であった。西田自身、これらの言葉を厳密に定義しているわけではないので、理解しづらいところもあるが、単純化して言えば、「逆対応」は神と人間との関係について、「平常底」は信仰の状態にある人間のあり方のようなものについて、語っている言葉だといえよう。

西田は、場所の論理を確立した後に書いた「叡知的世界」や「絶対矛盾的自己同一」などの論文において、宗教を場所の論理から説明してはいた。それは、弁証法的一般者としての場所が、神の宿るところであり、場所が自己限定して個物が生まれるというのは、いいかえれば神が自己否定して個物たる我々一人一人が生成するということであった。これは極めて単純化した言い方だが、要するに、神はこの世界に内在するという主張である。世界の内在的な根拠となるもの、それが神だとする見方である。

これで止まってしまえば、西田の宗教論は、一種の理神論と言うことで落ち着いてしまうわけだが、西田はそれでは終わらせなかった。理神論の神と言うのは、世界についての説明原理のようなものであって、西田の言葉で言えば、対象論理的な発想にもとづく観念である。だから、それは説明のための根拠とはなりえても、信仰の対象とはなり得ない。信仰とは、己の全人格を挙げて、聖なるものに帰依することである。信仰はだから、理屈ではない。しかも、そうした信仰は、心霊上の事実として、現に至る所に見られる。

人を信仰に導くのは、聖なるもの、すなわち神に対する敬虔な感情であろう。そのような感情は、理屈の領域からは生まれてこない。理屈は、この世界を、この世界に内在する原理から説明するものだが、宗教はそうしたものとは別の次元に成立するものだ。神が、この世界に内在するものだとしたら、それは理屈の神であって、信仰の対象としての神ではない。信仰の対象としての神は、この世界にとって超越的なものでなければならない。それは、キルケゴールのような真正のキリスト者が教えるところでもある。

しかし、西田は、神を単に超越的な存在として位置付けることには肯じなかった。西田にとって神はまず、この世界に内在するものでなければならなかった。しかも神は、この世界から超越しているという存在性格をも持たなければならない。内在と超越、この二つの相反するものを、どうやって調和させるのか。「逆対応」とは、このアポリアに応えるために、西田が持ち出した概念なのである。

「逆対応」と言うのも、西田らしい面白い言葉だ。単に対応といえば済むところを、何故わざわざ「逆」をつけて「逆対応」などというのか。普通に「対応」と言えば同じ方向を向いている同志が互いに応じあうというふうに捉えられる。これに対して、そもそも次元が異なるもの同士は対応することがないというふうに考えられている。しかし、西田はそれについて、いや、ある、と考える。西田は、神と人との関係がそれだという。神と人とは、両方ともに世界に内在するものではあるが、それぞれ存在の次元を異にしている。それを人間の立場から見ると、神は人間を超越しているように見える。超越しているからこそ、人間にとって信仰の対象となるのだ。この内在と超越とのもつれた関係をあらわす言葉として、「逆対応」という言葉は都合がよい。本来次元を異にする神と人間とが、信仰を通じて結びつく、それを「逆対応」の関係だというわけである。

西田が理神論の神に満足せずに、超越的な存在としての神にこだわるのはどういう理由からか。西田は、人間に神を意識させるのは、死の自覚だという。人間は死を自覚した時に、同時に永遠を考えないではおれない。でなければ、人間としての自分の生には、大した意味を覚えることができないだろう。ところで、永遠とは神でなければ何であろう。永遠な神を絶対者とすれば、我々一人一人の存在は相対的なものに過ぎない。しかし、その相対的なあり方は、神の絶対的な在り方と逆対応的に結びついている。

西田はいう、「相対的なるものが、絶対的なるものに対するということが、死である。我々の自己が神に対する時に、死である・・・相対が絶対に対するという時、そこに死がなければならない。それは無となることでなければならない。我々の自己は、唯、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである」

これは、死を宗教的感情の源泉とする捉え方であろう。死は、人間の有限性を思い知らせることによって、逆説的な形で、永遠性を希求させる、それが宗教的な感情の源泉だとするのである。こうした、人間の有限性の自覚を中心にして哲学を展開していくやり方はハイデガーに特徴的なものだが、西田とハイデガーのかかわりについては、ここでは触れない。

一方、「平常底」のほうは、信仰の境域に達した個人のあり方についての議論である。信仰の対象となる神は、キリスト教にあっては、超越的な存在であるから、神への信仰に目覚めた個人は、脱俗的な境地に入るのだとされてきた。また、仏教においても、悟りの境域に達した個人は、やはり脱俗的な境地に移るとされた。つまり、どちらとも、宗教的な人間を特別視しているわけである。西田の「平常底」は、こうした考え方の反対を主張するものだ。人は、何も、俗世間的な生活から脱しなければ宗教的境地に達することができないわけではなく、また、宗教的境地に達したからと言って、世間を捨てねばならないわけではない。人はそのままの状態で信仰を得ることができるのであり、信仰を得た後でも、世間的なままの生活を送り続けることができるのだ。西田はこの言葉で、そう主張しているのである。「平常底」はだから、「平常体」と言い換えても間違いではない。この辺は、世間的な存在者として禅を追求し続けた西田の本音が垣間見られるところだ。

「逆対応」といい、「平常底」といい、宗教の持つ超越的な面と、内在的な面とを、何とか調和させようとする西田の意思から出たものと考えることができよう。




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