知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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パンセ Pensees :パスカルの深淵


パンセは、パスカルが晩年(といっても30代半ばだが)に、キリスト教の弁証論を執筆するために書き溜めた草稿を、死後友人たちがまとめたものである。草稿といっても断片類が順序もなく乱雑に残されていただけで、そこにパスカル自身の明確で統一したヴィジョンが示されていたわけではなかった。だが友人たちは、それらをつなぎ合わせて一冊の書に纏めた。

これが第一写本と呼ばれるもので、その後ポール・ロワイヤル修道院によって、この写本を基にした本が「パンセ」とうい題名で出版された。だが研究はその後も途切れることなく行なわれ、新たな視点から断片を配列しなおした本が次々と現れた。今日我々が標準的に用いているテクストは、1897年にブランシュヴィックによって編集出版されたものである。

パスカルがパンセを書くきっかけとなった出来事がある。姪のマルグリットが重篤な涙腺縁にかかり施しようもなくなったときに、イエスの遺物とされる茨の冠に触れたところが、たちまちにして直った。パスカルはそこに神の恩寵を感じ、「キリスト教の弁証論」を執筆する決意を固めた。それがパンセの原型となったのである。

パスカルはこの弁証論を1657年頃に準備し始めたようである。だがパスカルの健康状態はその頃急速に悪化し始めた。どうやら脳腫瘍と全身の癌が進行していたようなのである。だから執筆は遅々として進まなかった。パスカルは脳裏に浮かんだことを断片に書きとめながら、健康の回復を待ったようだが、ついにその願いはかなわず、4年余り後に死んでしまった。

こうした成立の由来からして、この書物はパスカル自身の信仰について語ったものである。我々今日の時代の読者は、この本をとかく哲学あるいは人間研究の書として読んでいるが、パスカルがこの中で目指していたのは、キリスト教の弁証であったことを忘れてはならない。

このような背景を考えながら、ここでは、人間の理性の限界と信仰への跳躍に関して、パスカルが打ち出している考え方を中心に、この書物を読み解いてみたい。

まずは、理性に対するパスカルの態度である。パスカルはデカルト同様、自然の偉大な観察者であり、科学の力に信頼を抱いていた時期もある。だが、パスカルはいつまでも、合理主義者でいることに満足できなかった。パスカルにとっては、自然の法則より、人間の救いのほうが切実な問題となったのだ。

この点で、パスカルはデカルトと袂を別つ。パスカルは「パンセ」の中でデカルトを許せないと書いているが、それはデカルトが理性を神に優先したからであった。デカルトの神は理性に先立ってではなく、理性の後に、しかも理性によって導き出される。そこがパスカルには、あべこべに思えたのだ。

パスカルは理性を全面的には信頼しない。理性は確かに偉大な働きではあるが、それは自ずから自分の住むべき領分を有している。その領分の外には決して踏み出してはならない。これが理性に対するパスカルの究極の態度である。

人間はこの世界において、理性の力を頼りに自然や人間自身について、多くの洞察を得られる。だが理性によって人間が知ることのできるものは、ちっぽけなものに過ぎない。

一方その理性によって世界に臨む人間というもの、それは宇宙の壮大な存在に比べれば、問題にならないほど矮小な存在でしかない。

このような問題意識をパスカルは次のように語っている。

「我々は、考えられる限りの空間の彼方に想像を巡らしてみても無駄である。我々の生み出しえるものは、事物の実在に比べれば、原子でしかない。実在とは,至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体なのだ。」
Nous avons beau enfler nos conceptions au-dela des espaces imaginables, nous n'enfantons que des atomes, au prix de la realite des choses. C'est une sphere infinie dont le centre est partout, la circonference nulle part. (72)

「結局自然の中において、人間とは何者なのか?無限と比べれば無、無に比べれば全体である。つまり無と全体の中間に位置しているのだ。」
Car enfin qu'est-ce que l'homme dans la nature? Un neant a l'egard de l'infini, un tout a l'egard du neant, un milieu entre rien et tout. (72)

パスカルがこれらの言葉で表現しているのは、合理主義思想に対する批判である。デカルトは合理主義思想のチャンピオンとして、人間の理性に全面的な信頼を置いていた。デカルトにとっては神でさえも、理性のパートナーに過ぎなかった。少なくともデカルトのうちに、敬虔な信仰心を認めることはできない、それがパスカルの心証だったろう。

デカルトの理性によって、我々人間が知りうるところはほんのわずかでしかない。宇宙との関連においても、人間は自分が本当はどのような存在なのかについて、本当に知るところはほとんどない。まして、神について、その存在を人間のちっぽけな理性で云々することは笑止千万である。

人間は己の存在の矮小さと、理性の限界を知らねばならない。

「自分の命のわずかな持続が、前後の永遠の間に挟まれていることを考えるとき、また自分がそこにいて見てもいるわずかな空間が、私が知らず私に縁のない無限の空間の中に沈みこんでいくことを考えるとき、わたしは恐れとおののきを感じ、自分が何故かしこにではなく、ここにいるのかと自問するのだ。わたしをここにおいたのは誰なのか?誰の命令、誰の指図によって、この場所とこの時間がわたしに割り当てられたのか?」
Quand je considere la petite duree de ma vie, absorbee dans l'eternite precedant et suivant, le petit espace que je remplis et meme que je vois, abime dans l'infinie immensite des espaces que j'ignore et qui m'ignorent, je m'effraie et je m'etonne de me voir ici plutot que la. Qui m'y a mis? Par l'ordre et la conduite de qui ce lieu et ce temps a-t-il ete destine a moi? (205)

「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる。」
Le silence eternal de ces espaces infinis m’effraie.(206)

パスカルがここでいっていることは、宇宙という全体とわたしという人間との間に横たわる深淵についてである。我々はこの深淵を容易には飛び越えることができない。深淵のこちら側にあって我々が見ることができるのは、自分の目先の空間だけであり、また自分が生きている一瞬の間の時間の流れでしかない。深淵の先に何があるか、我々の理性には、想像するだにできないのだ。

これらは、宇宙の計りがたさと、その中で生きている人間の頼りなさについての感慨であるが、その宇宙の計りがたさの中には、神の存在も含意されている。

その神を人間はどのようにして知るのか。デカルトは理性を正しく働かせることで、我々は神の存在を確信できるのだとした。そして一旦確信した神の存在については、神自身の内包するものによって、我々は神の全体像を知りうるとした。

こうしたデカルトの考え方をパスカルは受け入れない。人間は理性によっては神の存在はもとより、宇宙の全体像でさえも知ることはできない。なぜなら人間は有限なものだからだ。

神は無限であり、宇宙も無限である。人間はその無限の合間の一瞬の時間、無限の空間のなかの無に近い空間に生きているに過ぎない。

そんな人間が神を、したがって無限をとらえることができるのは、人間自身の業によるのでは不可能だ。そこには神の恩寵がなければならぬ。これがパスカルの考えだった。

その神にしろ、デカルトは当然のことのように存在を疑わなかったが、神が当然に存在しているという保障はどこにもない。もしかしたら神は存在しないかもしれないのだ。存在しないものに自分の生のすべてをかけることは無謀といわねばならぬだろう。

そこでパスカルは、人間が神の存在を信じるのは、一種の賭けだともいう。だがその賭けは、人間にとって有益な賭けだとも、パスカルはいう。

賭けについてパスカルが述べていることについては、次の稿で取り上げるとして、ここでは、無力な人間のうちにも偉大な側面があると述べた部分を紹介しよう。有名な「考える葦」の一節である。

「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これを押しつぶすのに、宇宙全体が武装するには及ばない。一滴の水がればこれを殺すに十分だ。だが宇宙が人間を押しつぶしても、人間は自分を殺すものよりも高貴であろう。何故なら人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が自分よりも優越していることを知っているからだ。宇宙はそのことを知る由もない。」
L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature; mais c'est un roseau pensant. Il ne faut pas que l'univers entier s'arme pour l'ecraser: une vapeur, une goutte d'eau, suffit pour le tuer. Mais quand l'univers l'ecraserait, l'homme serait encore plus noble que ce qui le tue, puisqu'il sait qu'il meurt, et l'avantage que l'univers a sur lui; l'univers n'en sait rien.





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2008
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