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プラトンの国家論:原始共産制的階級社会


プラトンの理想とした国家像は原始共産制的階級社会というべきものであった。原始的とはいえ、共産主義と階級社会とは相容れないもののように考えられがちであるが、プラトンはこれらを融合させて、究極の超国家主義的な社会のありかたを理想のものとして夢見たのであった。

プラトンの考えによれば、すべての人間が平等ということはありえなかった。人間には能力や資質において歴然とした差がある。だから国家社会は、人間のこの差を前提にして運営されなければならない。思慮に欠けた人間たちは、統治に与らせるべきではなく、国を守るべきものは、それに相応しい勇気を持たねばならない。

プラトンがこのような考えを抱くに至った背景には、貴族の生まれであるという彼自身の出自と、当時のアテナイに行われていた民主政治への反発があった。彼の師匠ソクラテスを死に追いやったのは、ほかならぬアテナイの民主政治であった。民主政治は衆愚政治をもたらす。その結果高貴なものは排除されて、俗悪なものがはびこる。こうプラトンは考えたのである。

一方隣国のスパルタにおいては厳格な階級制度が敷かれていて、人びとは生まれと能力に応じて、統治するもの、戦うもの、統治されるものへと区分されていた。しかも統治階級や戦士階級の内部においては、原始共産制的な共同生活が徹底されていた。この新興の国家は、著しいエネルギーに満ち、あらゆる点でアテナイより優れているように見えたばかりか、ペロポネソス戦争以後のヘラスの世界において、覇者としての実力を蓄えつつあった。

プラトンはこのスパルタの国家のあり方に、強い感銘を受けたに違いない。彼の国家論はある意味で、スパルタのそれを理想化したものとも受け取れるのである。

プラトンは、理想国家の成員は三つの階級に区分されなければならないと主張する。統治者、戦士、普通の人である。そしてそれぞれが己に課せられた徳を実践することで、全体としての徳つまり公正が実現される。統治者の徳は智恵であり、戦死の徳は勇気であり、普通人の徳は節制である。これら各階級に固有の徳と国家全体としての徳との関係においては、国家の徳が優先される。国家が正しく運営されてはじめて、それに属する各個人の徳も正しいものになるのである。

このようにプラトンの国家論は、国家優位の考えに立ったものであり、そこには個人の意味は最低限においてしか認められない。諸個人の徳の総和が国家の徳を構成するという考えではなく、国家の徳が諸個人に反射的に及ぶのだという、全体主義的な色彩が強い考えに立っているのである。

この考えは、国家構成員の生活や教育に関する説の中に強く現れている。それは徹底した共産制なのである。

普通の意味での家族というものは認められない。子どもたちは生まれるや親元から切り離され、社会全体で育てられる。また成年の男と女は夫婦として二人だけの生活を営むことは許されない。国家のプランにしたがって、必要に応じて男女が出会い子どもを作るが、そのさい能力の高い男がより多くのこどもを生むように配慮がなされる。

こうであるから、子どもたちは誰でも、父親に相応しい年齢の男を父と呼ぶ。母、兄弟、姉妹についても同じようでなければならない。

子どもたちの教育にあたっては、音楽と体操が重視される。音楽については、人々に勇気を与えるような諧調のものが選ばれなくてはならず、リュディとイオニアの諧調は禁ぜられるべきである。なぜならリュディアの諧調は悲しみを表現し、イオニアの諧調は弛緩しているからだ。望ましいのは勇気を励ますドリアの諧調と、節度あるフリュギアの諧調である。現代人の感覚で言えば、行進曲のようなものなのだろう。

体操は子どもたちに頑健な身体をもたらす。生きるに価する人間とは、美しい身体をもったものである。不具や病気の子どもは棄てられるべきであり、病人は看護されてはならない。

子どもたちには検閲を通った話しか物語ってはならない。ホメロスやヘシオドスの話は、神々を不品行なもののように描いているところから、子どもたちには聞かせてはならない。つまり邪悪なものが幸福になったり、善人が不幸になったりするような話は一切遠ざけられねばならない。

プラトンによれば、理想国からはすべての劇作家が追放されねばならないのである。

さて、プラトンが人間の種類を三つの階級に分けたのにはそれなりの理由がある。プラトンによれば、神こそが三つの種類の人間を創造したのである。最も善なる人間は金から、次に善なる人間は銀から、そして普通の人間は真鍮と鉄から作られたのである。

国家を統治するものは最も善なる人々でなければならない。プラトンは、できうればただ一人の人による統治を望ましいものと考えていたようだ。

このように、プラトンの国家説を貫いている思想は、個に対する全体の優位である。徹底するあまりに個人の権利は完全に無視されるに至っている。あらゆる個人的意欲や個人的目的は全体的意欲や全体的目的のうちに解消されている。

プラトンにとっては、全体であるところの国家的な権威が実現されることによって、個人も始めて反射的に、国家の善にあずかることができるのである。





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