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自己の自己性:木村敏の自己論


デカルト以来、人間の個人としての主体性をあらわす言葉として、「自我」という言葉が用いられてきた。「自我」という日本語は、無論西洋哲学の翻訳語であるが、内実としては、西洋哲学における「エゴ」に対応している。デカルトの言葉で言えば、「 je pense,donc je suis 」の「 je 」に相当する。

ところが、精神病理学者である木村敏は、人間の主体性をあらわす言葉として、「自我」という言葉を慎重に避けて、そのかわりに「自己」という言葉を用いている。それには無論、木村なりに相当の理由がある。

「自我」という言葉には、歴史の垢のようなものがこびりついている。いくつかその例を挙げれば、意識の主体としての自我、実体としての自我、主語としての自我、ものとしての自我、などである。どれもみな、自我というものがまず存在して、その自我を中心としてさまざまな出来事が起こる、というように考える点では共通している。そのように考えたが故に、デカルトは意識としての自我を実体として規定したのであった。実体というのは、存在の究極根拠のことであり、さまざまな現象がよって来る所以をなすものである。実体がまずあって、それが働くことで現象が生じる、自我は世界の中心である、そう考えるわけである。

しかし、人間というものは、そんなに単純に割り切れるものではない、と木村は考える。人間には、主語としてのあり方と並んで述語としてのあり方もある。主語としての人間は、「私は・・・である」という形であらわされる。それに対して述語としての私は、「・・・は私である」という形であらわされる。主語としての私は、「もの」として捉えられているといえるが、述語としての私は「もの」として捉えられているとはいえない。述語としての私は、或る一定の「こと」とのかかわりの中で言及されているのであって、いわば「こと」の結節点というような立場にある。「こと」が先にあって、そこから「私」が導き出される。そのような私には、「自我」という言葉は相応しくない。なぜなら、この言葉には、上述したようなイメージの垢がこびりついていて、主語としてしかイメージできないからである。したがって、述語としての私には、別の言葉、たとえば「自己」が必要になる。そう木村は考えて、「自己」という言葉にこだわっているのであろう。

自己という言葉を使うことで、人間というものを、デカルトがいうような意味での世界の中心としての自我として捉えるのではなく、こと=現象の結節点として捉える見方が強まる。自我が実体を想起させる言葉なのに対して、自己は関係性を想起させる。自己というものは、さまざまに関係しあう現象の結節点として立ち現れてくる。自我が人間に生まれながら備わっている先験的な主体性としてのあり方であるのに対して、自己は経験の積み重ねによって成立してくる、後天的な主体性であるといえる。自我はそれ自身によって存在する、これに対して自己は経験によって作られる。そう木村は考えるわけである。

自説を補強する材料として、木村は西田幾多郎の「純粋経験」やベルグソンの「純粋持続」をよく持ち出す。純粋経験も純粋持続も、主観と客観とが未分化の、混沌としたウル現象ともいうべきものであり、これから対象が定立される一方、それとほぼ同時的に主体も定立される。つまり、主体的な自我というものがまずあって、それに現象が所与としてあらわれて来ると捉えるのではなく、まず混沌とした現象的な事態があって、そこから主客が分化してくる、と考えるわけである。

自己は作られる、といったが、一旦作られたらそれで完成し、あとは不変で安定したものになるかといえば、そうではない、と木村はいう。自己は、たえず自分自身を作っていなければならない。そのたえず自分自身を作っているプロセス全体が、自己をいうものを成り立たせている、そう考えるのである。

精神疾患は、このプロセスがうまくいかないことから生じる。プロセスがうまく機能しないために、自己が堅固なものにならない。言い換えれば、「自己の自己性」が損なわれてしまう。それが、精神疾患の根本的要因である。

精神病理学には、「自我同一性=アイデンティティ」という概念がある。これを木村流に解釈しなおすと、「自己の自己性」ということになる。自我同一性という概念には、デカルト的な意味での自我の要素が紛れ込んでいて、したがって、自我同一性が毀損されている事態は、自我の全面的な崩壊を想起させる。これに対して、「自己の自己性」という言葉は、自己を生成途上のものと捉えることによって、その毀損を相対的な現象として考える余裕が生まれる。精神病は、決定的に異常なものではなく、精神状態が相対的に正常値から逸脱している事態に過ぎない、ということになる。

ところで、「自己の自己性」について、それを「もの」としてではなく、「こと」とのかかわりにおいて捉えようとする立場は、廣松渉のそれに通じるものがある。廣松の場合には、「もの」に対する「こと」の優位、実体概念にたいする関数概念の優位を主張したわけだが、それはあくまでも認識論の一環としての議論であった。ところが木村の場合には、人間の認識については、当面の問題とはなっていない。彼が問題にするのは、あくまでも人間の生き方である。その生き方の中には、認識の問題も含まれるかもしれないが、それは表向きの問題にはならない。問題となるのはあくまでも、人間のトータルな生き方である。その生き方の根拠としての、「自己の自己性」にこだわっている。その辺は、哲学者と精神病理学者の、問題意識の違いによるのだろう。




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