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ピコ・デラ・ミランドラ:イタリアの人文主義


ルネサンス時代は、文学、芸術、建築などの分野で偉大な天才を輩出したが、哲学思想の面では大した人物が出ていない。それでも時代を彩る思想的な流れはあった。人文主義といわれるものがそれである。

これはギリシャ以前の思想に直に触れることによって、中世を通じて人々を束縛してきたキリスト教と、それを体系化したスコラ主義の教義を脱却し、人間を含めた自然をありのままにとらえなおそうとする動きと定義することができる。古代の思想に復帰することを含意するところから、人文主義の運動は文芸復古とも称される。

こうした動きが顕在するきっかけを作ったのは、東方からギリシャの古典が流入し、プラトンやアリストテレスなどの著作を原文によって読むことが可能になったことがある。それまでは、アリストテレスの著作は大部分ラテン語訳されていたとはいえ、アラビア語を介しての重訳であったし、プラトンに至っては、ほんの一部しか伝わっていなかったのである。

1438年、東ローマ教会と西ローマ教会との間で、両教会合一を話し合う会議がイタリアのフェラーラで開かれ、ついでフィレンツェでも開かれた。この時東ローマ教会から来た人々は多くのギリシャ古典の原文を携えてきていた。イタリアの人文主義は、これらの古典をラテン語に翻訳することを通じて培われていった。

これまでその偉大な名前は知っていたものの、全容については知ることのなかったプラトンの説、それに接した人文学者たちは、アリストテレスを乗り越えてプラトンを導きの糸としつつ、スコラ主義によって教義化されたキリスト教的な世界観を再構築しようと努めるようになる。

ピコ・デラ・ミランドラ Pico della Mirandola(1463-1494) は、そうした人文学者の中でも、ひときわ重要な意義を持つ人物である。もとより深甚な思索に裏付けられた壮大な世界観というものは期待するわけにはいかない。ピコに限らず、イタリアの人文学は、ギリシャの古典とキリスト教の教義とを和解させようとする折衷的なものであった。そのプラトン解釈も新プラトン主義に近いものであった。

ともあれ、ピコ・デラ・ミランドラには、この時代の思想的雰囲気を圧縮したようなところがあった。だからイタリアの人文主義を研究する際には、格好の材料を提供してくれる。

ピコ・デラ・ミランドラは北イタリアのフォッサに貴族の子として生まれ、少年時代にボローニャでカノン法を学んだ後、フェラーラの大学でラテン語とギリシャ語を、ついでパドゥアの大学でヘブライ語とアラビア語を学んだ。彼はこうした知識を武器に、カトリックの狭い知的空間を越えて、世界大的な視野を持つようになる。なお、彼はフィレンツェの宗教改革者サヴォナローラとも、若い頃から親交があった。

ピコ・デラ・ミランドラの名を高めたのは、1486年に計画されたローマでの大討論会である。彼はこの討論会のために、自らの主張を900の命題にまとめ、これについて方々の学者に討論させようとしたのである。それらの命題は、従来のスコラ哲学の範疇を超えて、プラトンとアリストテレスの一致、アヴィケンナとアヴェロエスの調停、ユダヤのカバラ教とキリスト教の融合など、当時としては斬新な主張があふれていた。

だがピコのこれらの主張の中には、ローマ教会として見過ごせないものが多く含まれていた。それらは異端の疑いがあるとされ、討論会は禁止された。そのためピコはフランスに逃亡しなければならなかった。

ピコにとっては、キリスト教も、ユダヤ教も、ギリシャの密議も、バビロンのカルデア教もペルシャのゾロアステル教もみな、同じことを教えている。内実は同じなのに、それを表わす言葉が多少異なるだけなのだというのである。

こうしたピコ・デラ・ミランドラの思想の核心は、ローマの大討論会のために準備した演説「人間の尊厳について」の中で展開されている。

神は無からこの世界を作るにあたって、まず天使の世界、ついで星の世界をつくり、またこの地上が属する月下の世界を作った。月下の世界においては、そこに住まうさまざまな動植物を作ったが、最後に人間を作るにあたって、何を付与すべきか、はたと迷われた。鳥には羽を、魚にはひれを与えたのだったが、人間のためにはもう何も残されていない。そこで神は人間に「自由意志」を与えることにした。これは形なきものではあるけれども、人間として生きていく上で相応しい贈り物と考えられたからだ。

人間は自分の自由な意思によって何にでもなることができる。盲目な欲望に駆られ地上に転がるならば植物となり、感覚にとらわれ快楽にふけるならば動物ともなる。しかし、人間が自由意志を正しく使い、理性によって導かれるならば、天界にすむ霊的存在ともなり、身体を離れて純粋な観想のうちに生きるならば、やがては神そのものとなることもむつかしくはない。

人間の自由意志を高らかに歌い上げたこの演説は、中世的な世界観を覆し、人間を世界の中心に据える画期的な発想だったといえる。だからこそ、旧来の価値に固執するローマ教会から激しく弾圧されるようにもなったのである。

ピコ・デラ・ミランドラには、ローマ教会から憎まれる理由がもうひとつあった。それは魔術への信仰である。伝統的なカトリック教会は、非キリスト教的な原始生活に根ざしたさまざまな要素を、異教的として弾圧してきたが、その中でも魔術は、キリストの教えと最も相容れないものであった。

ピコ・デラ・ミランドラはこの魔術について、悪霊にかかわる黒魔術と、今日の自然科学に近い白魔術を区別し、自分はもっぱら白魔術を取り上げているのだといっている。しかしローマ教会にとって、それらの区別などあるわけもなかった。

白魔術の一つの伝統的な領域として、天体の運行にかかわる魔術、つまり占星術があった。ピコは占星術については、これを否定していた。地球から遠い天体が地上のことに影響を及ぼすことなどありえないという、自然学的理由からである。また、人間には自由意志があり、その自由意志は天体などの外的な力によってはくつがしえないほど強いものなのだという信念もあった。

ピコ・デラ・ミランドラはフランスがイタリアに進攻してきた1494年に31歳の若さで死んだ。その死をめぐっては、古来多くの謎が指摘されてきた。もっとも強く支持されているのは毒殺説である。ピコは若い頃からサヴォナローラと親交があったが、そのサヴォナローラが預言者のような風貌で民衆の心をとらえるようになったとき、その動きに危機感をもった勢力によって、サヴォナローラを囲む危険人物の一人と目され、密かに殺されたのではないかと推測するものである。

サヴォナローラはピコの死後、フィレンツェに共和政治を樹立するとともに、厳格な神権政治を行なった。このことから宗教改革の先駆者とも言われている。しかしそのサヴォナローラも4年後の1498年、民衆の怒りの対象となって、火あぶりにされて殺された。





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