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社会契約論:ルソーの政治思想


「学問・芸術論」や「人間不平等起源論」でルソーが展開した主張は、文明が人間を堕落させるというものであった。原始の状態にある自然人は、自由でしかも平等であり、誰もが人間としての尊厳を保っていた。ところが人間の中に社会というものが生まれ、そこに学問・芸術が栄え、富の偏在による不平等が生まれるようになると、人間本来のあり方であった自由と平等がおびやかされ、人間は途方もなく堕落した。それ故もっとも肝心なことは、文明の殻を脱ぎ捨て、少しでも自然人の状態を取り戻すことである。

こうした主張の流れからすると、社会契約論で展開されている主張は、それ以前のルソーの主張からは断絶しているのではないか、そう捉えられるところがある。なぜなら社会契約論は、ルソーが断罪した人間社会の現在のあり方を前提としたうえで、いかにしてそれを良くするか、そういった立論にほかならないからだ。人間にとって、もっとも肝心なことが自然状態に戻ることだとしたら、なぜわざわざ、堕落しているはずの今の状態について云々するのか、当然ながらそういう疑問が生まれるというものだ。

ルソー自身が、「人間不平等起源論」などで展開した自然状態の定義と、「社会契約論」で展開した主権や一般意思といった概念との関係を明確にしていないため、それらの間にどのような関係があるのか、あるいはまったく関係がないのか、つまりルソーは社会契約論の中で、全く新しい視点から政治体のあり方を論じたのか、判然としないのは無理はない。

もしルソーが、それまでの自分の議論をいったん脇へ置いて、社会の統合や政治体の正当性の根拠といったものについて、新しい議論を展開したのだとすれば、それはそれで、議論の出発点にはなるだろう。その場合の議論は、人間の堕落したあり方としての社会であっても、より望ましいあり方を探求する意味はある、何故なら、現在の人間社会で繁栄している文明を破棄して、全くの自然状態に戻ることが、必ずしも可能とはいえないこともあるからだ、そういう理屈が成り立つだろうからだ。

あるいはルソーは、人間不平等起源論で展開した自然状態への回帰という主張は、現状に対する異議申し立ての機能を果たすとしたうえで、社会契約論において展開している一般意思などの理念も、現実の政治のあり方を批判し、それに対して意義申し立てをするための概念装置だというふうに位置付けているのかもしれない。この場合には、社会契約論で展開されている主張は、ある点で人間不平等起源論の議論と、つながるものを持っているといえなくもない。

たとえば、人間不平等起源論のなかでは、人間の不平等は法的な根拠を持つ場合もあるとするグロティウスなどの主張を反駁し、人間は他の人間を奴隷にする権利はなく、また何人も自分を奴隷として売る権利はないという意味のことを言っているが、同じ議論は社会契約論のなかでも展開されている。社会契約論は、自然状態に帰ろうとは一言も言ってはいないが、人間の自由の不可侵性や、政治的な平等ということについて繰り返し語っている。その点では、人間不平等起源論でなされた議論の延長線上に、位置付けることができないわけでもない。

実際ルソーは、人間不平等起源論のジュネーヴ共和国への献辞の中で次のように書いている。「わたしは立法権がすべての市民に共有であるような国を求めたでしょう」(小林善彦訳)

「とりわけわたしは、人民が為政者なしですまされると思い、あるいは為政者には一時的な権力だけを残しておけばよいと信じて、軽率にも市民生活に関することの管理とその法律の執行とを、自分たちの手に残しておくような共和国は、必然的によく統治されていないものとして避けたでしょう」(小林善彦訳)

これらの言葉は、本論とは直接関係のない祖国への献辞の中で述べられているものだが、よく吟味してみると、ルソーの政治理念の一端が述べられているのに気づかされる。一方では、市民自体が立法権を持ち、自分たちのことを自分たち自身の手できめ、そうしてきまった自分たちの法律上の意思を、為政者を通じて執行する、その為政者も自分たち全員が選挙で選んだという点で、共和国の市民は常に自分自身の主人として、独立と自由とそして平等を保つことができる。そのような信念がこの言葉からはうかがえるのだ。

それ故、ルソーが社会契約論の中で展開しようとしたのは、人間不平等起源論で展開していた価値のうちの、人間本来がもともと持っていた、自由、平等、博愛といった価値が実現されるような政治体制、それを問題として取り上げたのではないか、そう考えることもできる。そして、そう考えれば、社会契約論は、往々いわれるように、それまでのルソーの思想と断絶したものではなく、連続していることが指摘されうる。

「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼等以上に奴隷である」(井上幸治訳)

社会契約論の冒頭を飾るこの有名な言葉は、人間が自然状態で持っていたはずの自由を失い、いたるところ鉄鎖につながれている現実の社会のあり方を糾弾するものになっている。人間が本来持っていた自由を奪い、鉄鎖につないでいるものは何か、これを究明することは、人間が人間本来のあり方を取り返すことに通じる。

つまり社会契約論は、人間不平等起源論で展開していた人間的な状態の回復を、政治のレベルで論じたものだということができる。

自然人というテーマに即していえば、もどるべき本来の状態とは何か、それは何とかイメージできる。しかし、政治的な存在としての人間が、取り戻すべきものとはなにか。自然人の場合には歴史的な存在としての人間によりどころを求めることができるが、政治的な存在については、そのような歴史的なよりどころを求めることはできない。たとえばアテナイやスパルタなどの現実の都市国家において実現されていた歴史的な政治上の実践というものがないわけではない。しかし、それを全面的な目標とするわけにはいかない。たとえばアテナイの民主政治を現在のフランスに適用しようとしても、それは不可能ごとに近い。

政治的な存在として、人間が取り戻すべき状態とはだから、あくまでも理念的なものである。それは自然状態とは違って歴史上に実在したことはないが、それでも理念的な状態として、人間が求めるべき価値はあるし、また実現される可能性もある。

その状態とは、一言でいうのはむつかしいが、ある政治体の中で生きるすべての人間が、他者の支配を受けず、したがって奴隷化の脅威にさらされておらず、また自分の意に反したことを強要されないような社会である。それを積極的に言えば、自分の意思に従って生きる自由が保障されている政治体制である。そのような政治体制にあっては、社会の成員はすべて平等であり、一人一人はまったく同じ価値を以て政治体の運営に携わることができる。そうした政治社会こそ、人間にとって本来あるべき社会の姿なのだ。

それ故、社会契約論において、ルソーがもっとも強調しているのは、立法のあり方である。この立法が、その政治体の構成員全体の意思によって定められ、その決められた意思が法律という形をとって現前し、それを為政者が忠実に執行する、こうしたあり方が理想である。

ルソーは、民主政体のほかに、貴族政や君主制政体をも論じているが、そのどれにあっても、政権の正統性の根拠は構成員全体の意思に基づいている。君主や貴族たちといえども、人民の意思を実現するための代理人なのであり、自分が主人なのではない。ルソーはそう繰り返すことで、どのような政治権力も、その究極の権威の源は人民の意思にあるということを繰り返す。この点で、ルソーは民主主義を歴史的な統治の一形態ととらえて相対化するのではなく、どんな政体によらず尊重されるべき最高理念としてとらえた、つまり究極の民主主義を主張した、そういえると思うのである。





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