知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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超越について


超越は、無や無限と並んで、西洋哲学における重要な概念であるが、日本人にはいまひとつピンとこないものがある。その理由は、この概念がキリスト教の神と深いかかわりがあるからだろう。キリスト教の神は、我々の生きている世界を、無から創造したということになっている。ということは、キリスト教の神は、世界の外部にあって、その世界を無から作ったということである。この世界の創造者として神は、いまでもこの世界から超越した存在である。超越というのは、この世界の外部にあって、この世界に属するものとは異なった次元にあるという意味なのである。だから我々は、直接神に接することができない。神に接することができるためには、我々自身がこの世界を超越しなければならない。パスカルはじめ超越を語る人々は、みな神を思いながらこの言葉を語っていたのである。

ところが日本人には、超越するということがイメージとして湧いてこない。その理由は、日本人はキリスト教的な意味での神を持たないからだ。念仏の徒のように、他力信仰に頼む人も、その本願はキリスト教的な神ではない。たとえば阿弥陀仏はこの世の外部にあって、無からこの世を作ったとは見なされていない。キリスト教の神のように、この世から超越してもいない。阿弥陀仏は、眷属たちを引き連れてこの世に生きて死なんとする人を、わざわざ極楽へ迎えに来てくれるものと表象されているくらいである。

阿弥陀仏は仏教が起源のものだが、日本古来の神々も、阿弥陀仏と似たようなものと考えられている。日本の神々のほうがずっと世俗的といってよい。日本の神々は、あの世というよりは、この世の果てのようなところに暮らしていて、節目ごとにこの世にやって来ては、自分の子孫たちの幸福を予祝してくれるものとして観念されている。阿弥陀仏よりもっと超越とは遠いのである。

キリスト教圏の人たちが、超越を考えるところ、日本人は解脱を考える人が多いだろう。解脱は、仏教でいう輪廻転生とかかわりがある。仏教では、人は死んでもまた六道のいづれかに生き返る。それは煩悩から逃れられないことを意味する。煩悩から逃れるためには、輪廻転生から解脱しなければならない。それは存在することをやめるという意味だ。

キリスト教の超越は、この世界から超脱して、つまりこの世の外部と内部との間にある深淵を飛び越えて、神のもととにいくことを意味する。人間はこの世界から超越することで、神と一体化できるのだ。一体化と言って語弊があれば、神のもとに召されると言い換えてもよい。キリスト教の神は、人間に世界からの超越を望んでいるのだ。一方仏教圏の人びとは、そうは考えない。仏教の教えは、世界から超越することではなく、輪廻から離脱することを目的とすることである。輪廻から離脱するというのは、先ほども言ったように、そもそも存在することをやめることである。存在することをやめることで、絶対的な安静の境地に達すること、それが生きていることの終局の目的なのだ。人間にとっての諸々の煩悩は、生きている、つまり存在していることに根ざしている。したがって存在することをやめれば、煩悩もなくなるわけである。存在することをやめるとは、死ぬことと端的には一致しない。何故なら人間は、死と再生を繰り返すと仏教は考えるからだ。その死と再生を仏教は輪廻という。輪廻を繰り返している間は、煩悩の楔から解放されることはないのだ。だから煩悩から最終的に開放されるためには、輪廻から離脱して、永久に存在することをやめねばならないのである。これを仏教では解脱という。日本人には仏教の影響が深く染み込んでいるので、いまでも多くの日本人が解脱の観念をもっているのである。

このように、仏教でいう解脱とは、死ぬことを前提にしている。ということは、仏教とは善く死ぬための教えということになる。人が善く死ぬため、それは輪廻から解脱して永久に存在しなくなることを意味するのだが、そのような死に方を教えてくれるのが仏教である。それに対してキリスト教は、善き死に方を教えてくれるとともに、善き生き方も教えてくれる。人は生きながらにして神と向きあうことができる、というのが少なくともプロテスタントの教えであるし、カトリックにもそういう要素はあるようである。カトリックも、神を信じるものは生きながらにして祝福されるという教えはあるようだ。

生きながらにして神と向きあうということは、宗教は無論のこと、哲学においても大きな問題とされてきた。西洋哲学には、パスカルやキルケゴールを代表として、宗教的な思索を深めた流れがあるが、それらに共通しているのは、人はいかにして生きながら神と向きあうことができるかという問題意識であった。西洋哲学の主流が、人間の世界認識の根拠について思索を巡らせている間に、パスカルやキルケゴールは、世界を通りこして、一気に神に到る道を探していたのである。その道とは、道ならぬ道、すなわち超越なのであった。キリスト教の教えには、我々が生きる世界と神が住まう世界との間には、無限の深淵がある。その深淵を飛び越えねば神と直接に向きあえない。それゆえ我々人間は、その深淵を飛び越える必要がある。それが超越ということなのだ。超越とは、この世界の外部に一気に跳び出ること、跳び越えることを意味しているのである。

超越はだから、知的な活動ではない。ということは、人間は知性によっては、神に近づけないということだ。知性ではないとしたら何が超越をもたらすのか。それは一言でいえるほど単純なものではない。飛躍とか、決意とか、情念とか、いろいろな言葉を使ってそれを表現しようとしても、なかなか十分には表現できない、というのが実際のところだろう。パスカルの場合には、それは決意であった。人は決意することで、深淵を跳び越えるべく飛躍するのだ。その決意には理由はない。なぜなら理由というのは知性に関連したものであって、知性を超えた事柄には当てはまらないからだ。ところで、神に向っての飛躍とは、知性を超えた事柄なのである。

キルケゴールの場合には、人間が個人として自分の内面に沈殿することで、神との間にある深淵を跳びこえようとした。パスカルが外部に向って跳び越えようとしたのに対して、内部に向って跳び越えようとしたわけである。しかし内部に向って跳び越えるというのは形容矛盾に陥るから、内部に向って沈殿するというのである。

パスカルもキルケゴールも、人間の知的活動では神に直接向き合えないとすることでは共通していた。人間には、知的な活動のほかに、神をめざす心の働きというものがあって、それこそが人間として生きる上で本質的に重要なことなのだと、二人とも考えたのである。そうした考え方は、現代の哲学者であるレヴィナスに引き継がれた。レヴィナスは、他者の問題を主題的に論じた人だったが、その他者とは神をイメージしていながらも、隣人としての他者も含んでいる。そしてそうした資格における他者との関係において、レヴィナスは超越ということを語ったのである。

レヴィナスの超越は、他者との間にある絶対的な区別を跳び超えることである。何故そうなのか。西洋哲学の伝統にあっては、他者は自我の延長として捉えられ、自我が自己にとって対象性となるように、あくまでも自我にとっての対象的なあり方でとらえられて来た。自我は他者を対象性に還元することで、他者を自己自身の全体性のなかに統合する。しかしそういうあり方では本当の意味の他者とかかわりあうことは出来ない。本当の意味における他者とのかかわりを遂行するためには、他者の自立性を受け入れねばならない。その自立性とは、他者は自我との間にある無限の深淵によって隔てられており、自我の全体性からはみ出たものだということを認めることを求める。そのようなものとしての他者と本当の意味でのかかわりをもとうとすれば、自我は他者との間にある深淵を超越せねばならない、そうレヴィナスは考えるのである。つまりレヴィナスにおいては、超越は人間が他者との間に結ぶ倫理的な関係を基礎づけるものになっている。その倫理的な関係は、無論神との関係にも及ぶ。




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